◆ことばの話1380「パッツン、パッツン」

「あさイチ」の番組の若手(20代)ディレクターの子が、ピチピチのTシャツを着た状態を指して、
「パッツン、パッツン」
という表現をしました。これはこれまでにも時々耳にした覚えはあったのですが、改めて聞くと、面白い表現ですよね。
Googleで検索すると1370件ありました。これはネット上では、かなり市民権を得た表現なのですねえ。
国語辞典を引いてみても載っていません。ちょっと古いですが『キャンパス用語集1997年』(高山勉編)にも載っていません。
早稲田大学の飯間浩明さんにメールで質問したところ、すぐさま、返事が返ってきました。
「私が初めて目にしたのは、1999年12月2日号の『週刊文春』で、『(来日のマライア・キャリーは)下に穿いたジーパンはなぜかベルト部分が切り取られ、ボタンが今にも弾け飛びそうな“パッツンパッツン状態”。革のベルト?と思ったら、マライアのお腹だった。』という例です。」
なるほど、もう4年前に中央のメディアで使われていたのですね。誰がいつ頃使い出したんだろう??
質問のメールを送った大阪外国語大学の小矢野先生からは、
「パッツンパッツンは初めて聞きました。今年2月に、女子学生が『ぱつってる』という言葉を使っているのは聞いたことがあります。意味は『パンツがピチピチの状態』のことだそうです。」
というメールをいただきました。この場合の「パンツ」は下着ではなく、いわゆるズボン、スラックス、パンタロンのたぐいですよね、勿論。
「ぱつってる」があるなら、おそらく小矢野先生の知らないところで、学生は「パッツンパッツン」を使っているはずですよ、きっと。


2003/9/1

◆ことばの話1379「一元論と二元論」

大嶽秀夫著『日本型ポピュリズム〜政治への期待と幻滅』(中公新書:2003、8、25)という本を読みました。大嶽先生には、読売テレビの土曜朝8時から放送中の「ウエークアップ」という番組にもレギュラー出演して頂いているのですが、この本にはその「ウエークアップ」プロデューサーの春川正明や、コメンテーターで読売テレビ解説委員の岩田公雄とのインタビューというか鼎談というか座談会というか、その様子も掲載されています。
その本の「帯」にこんな文字が。
「<善玉・悪玉>二元論の災い」
それを見て、これまでにも何度か書いた「二つに分ける思想」(平成ことば事情314と440)の悪い面に触れる人が、最近増えたなあ、と感じていたのですが、それと同時に、

「<善・悪>というのは、『一つの価値基準の両端』であって、これをもって<二元論>と言えるのだろうか?<二元論>ではなく、<一元論>ではないのか?」

という考えが頭をもたげました。
辞書を引きました。電子版『広辞苑』。
「一元論」
(1) 一つの原理だけで一切を説明しようとする考え方
(2) 物質・精神またはそのどちらでもない第三の実体によって世界を一元的に説明する哲学上の立場。

うーん、これを見ると「二つに分ける思想」は(1)の「一元論」のようにも見えますねえ。
そしてこの項目、「二元論」「多元論」に「→」がついていますので 「ジャンプ」してみました。
「二元論」
(dualism)ある対象の考察にあたって二つの根本原理をもって説明する考え方。
(1) 宇宙の根本原理を精神と物質との2実在とする考え方。デカルトの物心二元論は代表的な例。→ 一元論
(2) 世界を善悪二つの原理(神)の闘争と見る宗教。ゾロアスター教、マニ教など。

大嶽先生の本の帯の「善玉・悪玉」は、この(2)の意味では「二元論」ですけど、「善か悪か」というのはひとつの原理のようにも思えますねえ・・・。
ついでに「多元論」も・・・。
「多元論」
(puluralism)
(1) 世界が相互に独立な多くの根本原理や要素から成り立っていると考える世界観。
(2) 広義では、ある対象領域について相互に独立んは多くの根本的な原理や要素を認める考え方。→ 一元論

あ、私はこれがいい!と思いました。
それはそれとして、この疑問を、哲学科出身のUアナウンサーにぶつけてみたところ、
「『一元論』は、『AかA以外』という分け方で、『二元論』は『AかBか』という分け方なのではないでしょうか。」
という答えが。つまり、一元論の「A以外」の中には「B」も含まれるし、「B以外のCやDも含まれる」ということですね。軸は「Aのみ」というのが「一元論」、それに対して軸が「A」と「B」の2つあるのが「二元論」ということです。
「そうすると、『唯一神』とする宗教『一神教』は『一元論』で、『ギリシア神話』のような『多神教』は『多元論』ということ?」
「そうですね。」
「じゃあ、キリスト教は?イエスが唯一の神ならば、一元論?善と悪は一元論?」
「うーん、どうなんでしょう??」
話がややこしくなってきましたねえ・・・。どうも一筋縄ではいかないようで・・。

2003/8/31



◆ことばの話1378「1976年の新日本紀行」

8月30日。土曜日の午前中、珍しく早く起きてテレビを見ていると、NHK大阪放送局制作の「かんさい想い出シアター」という番組をやっていました。「NHKアーカイブス」の関西版のような感じで、昔の番組の前後に「枠」をつけて再放送するものですね。この日は1976年に放送された「新日本紀行」で、取り上げた題材は「岸和田のだんじり祭」(NHK大阪制作)でした。
ナレーターは秋山隆アナウンサー。あとでインターネットで調べたら、秋山さんは1937年7月4日生まれの東京都出身、早稲田大学卒、血液型B型、とありました。そうすると、現在66歳ですね。
その秋山アナウンサーの27年前のナレーションを聞いていて、アクセントで今と違うかな、と思った点を書き出します。 ・(だんじり)30台(サンジューダイ・HLLLLL)頭高アクセント
・ 20年(ニジューネン・HLLLL)頭高アクセント
・ たんぼのあちこち(アチコチ・HLLL)頭高アクセント
・ 花形(ハナガタ・LHLL)中高アクセント
・ 昔と少しもかわりません(スコシモ・LHLL)中高アクセント
・ 泉州の漁民(ギョミン・HLL)頭高アクセント
・ 待ちに待った(マチニマッタ・HLLLLL)頭高アクセント
こういった言葉について、『NHK発音アクセント辞典』で調べてみると、なんと、どれも2番目のアクセントとして載っているではありませんか(「あちこち」を除く)。
数字のアクセントはけっこう「バラツキ」があるので、「昔と変わった」とまでは言えませんが、27年前は原則、頭高アクセントのようですね。

「2番目に載っている」ということは、
(1)「以前は主流だったが最近は、1番目のアクセントの方がよく使われている」
(2)「最近使われ始めて増えているが、まだ主流ではない」


という2つの可能性が有りますが、秋山アナウンサーのアクセントはたぶん(1)でしょうね。つまり「27年前には主流であったが、現在は使われなくなってきている。」
まだ完全に「死語」的アクセントになっているわけではあませんが、主流の座は降りてしまっている。例えば「漁民」や「花形」は、今では「平板アクセント」でしょう。
ということは、ここ27年で、アクセントが変わりつつある言葉は「けっこうある」ということが言えるでしょう。
この話を、山本純也アナウンサーに話したところ、

「久米宏さんは『不気味』という言葉を、頭高の『HLL』と言いますよね。おかしいな、平板アクセントじゃないのか、と思って、家にあった古いアクセント辞典を引いたら、頭高アクセントの『不気味』が最初に載ってるんですよね、昔のは。今は、『不気味』は普通、平板アクセントですから、やっぱりアクセントは変わってきてるんですね。」

という話をしてくれました。そうなんです、20数年の間にアナウンサーのアクセントも、確実に変わってきているんです。それを実感した1976年の『新日本紀行』でした。

2003/8/31


◆ことばの話1377「ザ・ストップ」

8月27日夜、ニュースを見ていると、自民党の総裁選挙を控えて亀井静香氏がある会合に出ている様子が映し出されていました。
亀井氏が壇上に立ったその頭の上にかかっている看板には、こんな文字がありました。

「ザ・ストップ小泉政治」

普通、私たちが見慣れて聞き慣れている用法は、

「ストップ・ザ小泉政治」

ではないでしょうか?「ザ」が最初に来た形は見慣れませんね。
Google検索(8月29日)は、

「ザ・ストップ」=8万6900件
「ストップ・ザ」=8万7100件


しかし、「ザ・ストップ」で検索した中にも「ストップ・ザ」が含まれていたので、正確な数字とは言えませんねえ。ガックリ。
気を取り直して、考えましょう。

「ストップ・ザ・〜」

といった場合には、「ストップ」は動詞で、「ザ・〜」とされた部分のもの(=名詞)を「ストップする・させる」という意味になりますし、

「ザ・ストップ〜」

という場合は、「ストップ」以下のすべてが「名詞」のくくりになるのではないでしょうか。
動詞の「ストップ」が頭にある方が、「運動」として「ザ」以下のものを阻止しようという意気込みが感じられるのに対して、「ザ・ストップ」では、もう決まってしまっているかのようで動きが感じられないと思います。亀井さんが出席したこの会合は本気で小泉政治を阻止しようという気があるのでしょうか。看板から見る限り、そうは感じられません。もしかしたら「ザ」を入れる位置を間違ってしまったとか・・・・それはないでしょうけれども、なぜ「ストップ・ザ小泉政治」ではなく「ザ・ストップ小泉政治」としたのかの理由を知りたいところです。
それともう一つ、この「ストップ〜」というときには、大抵「ザ」が付くのですが、なぜ「ザ」を付けるのでしょうか。これも以前、どこかで同じような疑問を目にしたことがあるような気がするのですが、解答は・・・忘れてしまいました・・。「ザ」の付かないものでは、昔の話ですが、マンガのタイトルで、

「ストップ!ひばり君」

というのがあったような気がします。
インターネットで調べると、1982年、江口寿史のマンガで、
「ストップ!!ひばり君!」
というのがありました。江口寿史でしたか。でもこれ、よく考えたら「ザ」は、入りようがないなあ。

2003/8/31


◆ことばの話1376「シュール」

8月27日の深夜、漫画家の杉浦茂さんの特集をNHK衛星放送の「マンガ夜話」という番組でやっていました。なかなか面白かった。この番組は時々見ているのですが、夏目房之助さんが「教授」という感じで、面白いです。
さてそこでこの杉浦さんのマンガを指して、

「シュール」

という言葉が出てきました。ふだん私たちも使いますよね、「シュール」。
「シュールな絵やなあ」
とか、
「シュールな状況やねえ 」
などと。『広辞苑』を引くと「シュール」は、

「シュールレアリスムの略。転じて、非日常的なさま、奇抜なさまをいう」

とありました。ここまではよく知っています、だってスペインはフィゲラスにあるダリの劇場美術館にも、バルセロナのピカソ博物館も、同じくバルセロナ、モンジュイックの丘にあるミロ美術館も行ったもんね。(自慢。)
それはさておき、その「シュール」という言葉を私はこれまで、ここに書かれているようにだけ理解しておりましたが、それ以外にも「シュール」という言葉を聞いたことが有ることを、ふと思い出したのでした。
そう、私が好きなワインの話で、

「シュール・リー」

という言葉があります。「シュール・リー」とは、「澱(おり)の上」という意味で、フランスはロワール地方で作っているミュスカデという種類の白ワインの作り方に出て来る言葉なんです。発酵が終わったあと、ワインは澱の上の「上澄み」のような状態で、普通はこの澱を取り除くのですが、そうはしないで(取り除かないで)翌年まで澱とワインを接触させておくと、澱の主成分がワインの中に溶け込み、独特の味わいになる、この製法を「シュール・リー」と言うそうです。シャンパーニュも2次発酵の段階で澱と接触させているそうです。

この「シュール・リー」が「澱の上」ということは、「シュール」というのは「〜の上」あるいは「〜を超えて」という意味ではないか、と気づいたのです。「シュールレアリズム」というのは、直訳なら「超現実主義」ですしね。英語で言うと「スーパー(super)」ですね。

そうすると、「ス―パー(super)」という単語も「スー」+「パー」で、「パー(per)」=「ゴルフのパーで平均」、ということで、それの「シュール=スー」で「平均を超える」が「スーパー」なのではないか、などというところにまで考えは進みました。さらに、「supreme(至高の、最上の、最高の、極度の、最後の)」という単語も「su」が「〜の上」「preme」は「premier(第一位の、最初の、最も古い)」と、たぶん同じ言葉なので、それを超えるということで、「至高の、最上の」という意味になるのではないでしょうか。
いかがなものなんでしょうかね。シュールでしたか?

2003/8/31
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