◆ことばの話1345「節電所」

8月11日、NHK「ニュース10」の特集を見ていると、

「節電所」

という言葉が出てきました。「発電所」や「節電」は聞いたことがあるけれど、「節電所」は知らないな。と思っていたら、各ご家庭で節電するから、その家庭が「節電所」なんだそうです。なーんだ。そして、待機電力などをなくせば、年間1万数千円くらいは「節電」できます、というような内容の特集をやっていました。電力不足の折り、東京電力から頼まれたのだろうか?いや、東京の人は、頼まれなくてもこういった企画は割と好きなようなんですよね、どうも。まあ、タイムリーな企画と言えるでしょう。
さて、その「節電所」、ためしにGoogle検索してみると、ナント

1万1600件も!

出てきました。ビックリ!
あ、でも、節電のためにはパソコン使ったり、テレビ見てたりしちゃあ、いけないのか 。プチッ・・・。



以前、書いたかも知れませんが、JR大阪駅北側のヨドバシカメラに行った時に、改めて感じたのは、

「地上8階建て(ぐらいだったと思う)のこの巨大なビルで売っている品物は、全部、電化製品、つまり電気を必要とする物なんだなあ」

ということでした。(実際はヨドバシカメラのビル、コムサデモードの店舗やレストランなども入っているので、全部電化製品・・・ではないのですが。)
知らず知らずの間に便利さを追い求めていたら、こんなになっちゃいました、という感じ。
それと、やっぱりヘエーと驚いたことは、現在、関西の電力供給は、原子力発電によるものが、50%を越えているんです。え!いつのまに!?と思いました。小学校の社会科で習った時は、たしか7〜8%。10%に満たなかったのですが。その時は、

「21世紀には、すべて原子力発電になる」

というようなことも言われていたような・・・。あ、もう21世紀か。
「節電」、頑張りましょう。

2003/8/17


◆ことばの話1344「等身大の幸せ」

フジテレビの「トリビアの泉」という番組を見ていたら、タモリさんが、

「『等身大の幸せ』という言葉が、一番嫌い!」

と言っていました。なぜかというと、

「幸せっていうのは、等身大より大きいから幸せなんで、等身大だったら、幸せじゃないだろ!」

というようなことを言っていましたね。そういわれてみればこの「等身大の〜」という表現、割と耳にする気はします。また、インターネット検索Google、してみました。

「等身大の幸せ」= 140件
「等身大の項福」= 9件
「等身大の」= 4万2300件(8月14日調べ)


ワオー。むっちゃ多い!!どういうふうな「等身大」か見てみると、

「等身大の〜」
予科練、立体表示、主人公、イラク、「いま」、「フォト&エッセイ」、泉、ダンシング・サンタクロース、中国、氷像、ヒロイン、アフリカ、芸術、17歳、ジーンズ、自分自身、インテリア、物語、自分、ハリウッドなどなど・・・。




この中で、「氷像」「ダンシング・サンタクロース」というものは、物理的に、人間の身長ぐらい、という意味での「等身大」ですが、その他は「自分の枠の中で」というような意味で、これがタモリさんが嫌っている「等身大」なんでしょう。これを見ていて感じたのは、最近(と言っても、2,3年前から)若者の間で流行っている、

「素(す)の自分」
「自分探し」


というようなことと、根っこは同じように感じます。
「素の自分」なんていうのは、飾らない・もともとの自分ということでしょうが、そんな当たり前の事を、わざわざ言わなくてはならないのは、如何に普段、「素」でない自分を装って生きていかなくてはならないか、ということの裏返しではないでしょうか。それだけ若者が生きにくい世の中ということなんでしょうかねえ・・・。
「等身大の幸せ」などと言っている若者に腹が立つタモリさんの気持ちが、分らないでもありませんねえ。

2003/8/14
*平成ことば事情1820「等身大」もお読みください。



◆ことばの話1343「建設業・建設業者・建設会社2」

平成ことば事情1322で書いた「建設業・建設業者・建設会社」の続きです。
その後、『NHK発音アクセント辞典』巻末の方を見ていたら、「複合名詞の発音とアクセント」についてまとめて載っていました。それによると、複合名詞を三つの型に分類して、629語の実例を並べているのです。
まず、

「アソビアイテ」(遊び+相手)(○○○●●●LHHHLL)のような型を「A型」、
「セイフアン」(政府+案)(○○○●●LHHLL)という型を「B型」、
「ゲンゼイアン」(減税+案)(○○○○●●LHHLLL)という型を「B※型」


として、実際に複合名詞をこの三つの型に分類しています。
ただ、ここには、

「なぜ、連濁するのか」
「なぜ、コンパウンドするのか」


といった疑問に対する答えは記されていません。実例を示しているのみです。しかし、これは大変利用しやすい資料です。と言うのは、ここに挙げられた複合名詞を見て、連濁しているかどうか、コンパウンドしているかどうかを調べれば良いからです。さっそくチェックしてみました。
複合名詞は、Aという名詞とBという名詞がくっついて、「A+B」という形の名詞になっているものですね。その際に、「もとは清音だったBの最初の一文字」が「濁音」になっていれば「連濁」です。ここでチェックするのは、まずその点です。
次にその連濁したものが、「鼻濁音になっているかどうか」をチェックします。その際には、Bという名詞が「連濁ではなく最初から濁音」のケースも一緒にカウントして、鼻濁化しているかを見ます。
まず、連濁するかどうかですが、これはBの頭の音が「か行、さ行、た行、は行」に限られます。だからチェックは楽だね。
か行の複合名詞は、

「か」=63、「き」=51、「く」=9、「け」=26、「こ」=29
さ行は「さ」=21、「し」=106、「す」=12、「せ」=21、「せ」=14
た行は「た」=24、「ち」=18、「つ」=1、「て」=35、「と」=5
は行は「は」=25、「ひ」=12、「ふ」=27、「へ」=5、「ほ」=18


でした。「し」が多いですね。楽とは言っても結構ありますな。

この中で「鼻濁音か濁音か」問題が生じる、Bが濁音「か行」のものは次の通りです。



 
(濁音)
(鼻濁音)
(もともと濁音) 学校、合唱、ガラス
議員、議会、業者
漁業、漁船、銀行
芸術、言語、現象元素
画、街、外交、学、楽、
学士、型、楽器、 がるた
側、為替、岩、 議員、業
具合、軍、芸、外科、劇
限度、語、号、

(連 濁)
会社、顔、係、傘、際
口、組、雲、暮らし

ということは、「連濁でBが濁音になったものは、すべて鼻濁音で発音する」ということですね。そして、複合名詞でBの発音が「濁音」のものは、「複合する前から、もともとBが濁音表記」なのです。
続いて、「さ行」以下を見てみましょう。これはポイントは「連濁するかどうか」です。連濁するものの方が数が少ないので、「連濁」のものだけをピックアップしましょう。



細工、砂糖、試合、じま(縞)、じゃくし(杓子)、茶わん、じょうゆ(醤油)、汁、汁粉、水晶、づえ、住まい、相撲、つる(鶴)、草子、大将、玉、鉄砲、時計、年、羽織、針、半紙、日和、節、普請、布団、部屋、奉公、包丁、骨、本、



以上の32語です。「か行」の連濁も合わせると、全部で41語です。
Bが濁音なのは(連濁も含み)全部で181語ありましたから、「複合名詞の濁音に占める連濁の割合」は、22,7%となります。
全体でここに取り上げられた複合名詞は、最初に書いたように629語ですから、ここに取り上げられた「複合名詞における連濁の割合」は、6,5%ということになりますね。コンパウンドの問題は、複合名詞はほとんどコンパウンドしていますね。A型が多いのではないでしょうか。調べてみると、A型アクセント415語ありました。66,0%、ほぼ3分の2ですね。というところで。

2003/8/11


◆ことばの話1342「煙火」

ホテルマンをやめて花火師になった長野県の青年が、8月3日の行われた平成淀川花火大会で、自ら作った花火を打ち上げました。そのドキュメントのナレーションを「ニューススクランブル」で読みました。ハイビジョンカメラで撮影した花火は、それはそれは美しいものでしたが、その原稿の中に、青年が働く花火製造所の名前が出ていました。

「堀内煙火店」

この「煙火」というのは「えんか」と読み、「花火」のことを指す業界専門用語なんだそうです。初めて耳にしました。「えんか」というのは「演歌」「塩化」くらいしか知りませんでしたが、今このワープロソフトで「えんか」と打ち込んで変換しようとすると、

「演歌」「塩化」「円貨」「艶歌」「円価」「煙火」「煙霞」「煙霞」「縁家」「嚥下」

とズラッと出てきました。Googleで「煙火」を検索してみると(8月11日)4万9000件も出てきました。そこで、「日本語のページ」に限定して同じく「煙火」を検索すると、9860件でした。ということは、おそらく「中国語のページ」で「煙火」は4万件近く使われているのでしょうね。しかし日本語でも1万件近いですから、相当使われていると見ていいでしょう。でも、一般的ではないですね。
『日本国語大辞典』を引いて見ました。

「煙火」
(1) 煙と火。(2)飯をたく煙(3)のろし。烽火(ほうか)(4)花火




(4)の花火の用例は、『随筆・嬉遊笑覧』(1830)、『東京新繁盛記』(1874−76)、『即興詩人』(1901)といったところからです。
載ってはいたものの、やはり一般的ではないということにかわりはないでしょう。
なお、取材したディレクターによると、

「風上から撮った映像は、とても綺麗でしたが、風下のカメラは、煙ばかり写って、全然使えませんでした。」


ということで、花火と言うと、大空に上がった「火」の方に注目が行きますが、地上の打ち上げ地点近くの「風下」では、「煙」の方が「主体」なのですね。そういう意味での、

「煙火」

納得が行きますね。

2003/8/11


◆ことばの話1341「セミの鳴き声」

冷夏と言われる今年、それでも大阪は、東京よりはやや暑い日があります。それと、セミは例年と同じようにやかましく鳴いています。新人のKアナも、

「朝から本当にミンミン鳴いて、うるさいんですう!」

と言っていました。しかし、ちょっと待った!

「本当にセミは、ミンミン鳴いてたのかい?」
「は?鳴いてましたけど」
「ミンミン鳴くのはミンミンゼミ。この辺で鳴いているのは、クマゼミかアブラゼミだからミンミン鳴いているか、よーく聞いてごらん」


と、意地の悪い先輩は言うのでした。あ、私か。
でも今年は例年とちょっと違うんです。
この所、大阪市内で一番はびこっていたのは、クマゼミ。大きなセミで、鳴き声はシャーシャーという感じ。私が小学生の頃(30年ぐらい前)は和歌山の南の方にしかいなかったクマゼミですが、都市の温暖化の為か、大阪市内でも見掛けるようになってもう10数年は経ちますね。
ところが今年は、クマゼミだけでなく、本当にミンミンゼミやアブラゼミ、ツクツクボウシの鳴き声が聞こえ、そして夕方になると、ヒグラシの、

「カナカナカナカナ・・・」

という、あの物哀しい鳴き声までも聞こえてくるのです。ヒグラシなんて、山の方に行かなきゃ、いなかったと思うのですが。
セミの鳴き声をいろいろと表現してみると、

「グワシャグワシャ、ガシガシ、シャワシャワ、ジンジンジンジン」

といったところでしょうかね。
ここでもう一つ、セミと聞いて思い浮かんだのが、芭蕉の、

「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」

の句。この句で思い出すのは、この「蝉」は単数か複数かという問題。英訳する時には「S」を付けるのかどうかです。これは同じく芭蕉の「古池や 蛙(かわず)飛び込む 水の音」の「蛙」にも同じ事が言えるのですが。
この「閑かさや・・・」の句を英訳した例をネットで見つけました。山岸文明さんという、おそらく静岡県の沼津高専の英語の先生と思われる方(1943年生まれ)のホームページ「現代俳句英訳の試み」に、載っていたこんな文章です。

芭蕉の有名な句、「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」を、ドナルド・キーン氏は次のように英訳した。

Such stillness-  
The cries of the cicadas  
Sink into the rocks.

見事な英訳である。日本語の五七五を英語でも同じ音節に置き換えている。ただし、一行目は三音節で、必ずしも五音節にこだわっていない。そこの空白をダッシュで補って、余韻の効果を生んでいる。キーン訳はまた、「岩にしみ入る蝉の声」を「蝉の声が岩にしみ入る」という順にしているが、こうした自由な入れ替えによって、リズムが生まれたり、英詩らしくなったりする場合があり、原句にとらわれ過ぎないことが、俳句を英訳する際に大切なことのように思われる。それにしても、キーン訳は、原句の四つのサ行音を六つのS音によって表現して、静寂感を感じさせる工夫や、強弱のリズム感など、さすが芭蕉に傾倒したキーン氏ならではの、文学史上に残る名訳といってよい。




うーん、たしかにお見事、シンプル・イズ・ベストですね。これによると、セミの声は「cry」=「叫ぶ」という単語で表されていますね。
それはさて置き、外国人はセミの声をどう聞いているんでしょうか?以前、外国人にとってスズムシなどの虫の声は、単なる「騒音・ノイズ」にしか聞こえないというのを、どこかで聞いたことがありますが、セミの声はどうなんでしょうか?どのように聞こえていて、セミの鳴き方をどういった言葉で表現するんでしょうか?「駅前留学」している妻に、

「外国人の先生に聞いてきて!」

と頼んだところ、英国人と米国人講師に聞いてくれました。結論は、

「普通は、何とも言わない。あえて言うなら、ジージーか、ギーギー。セミの声は、虫の声と同じく、ノイズ扱い。」

だそうです。えー、でも種類によってセミだって鳴き方が違うから全部まとめて「ノイズ扱い」というのは 解せんなあー。



さて、セミと言えばよく、

「地中に何年間もいて、地上に出てきてからは寿命が一週間というのは、短過ぎてかわいそう」

という声を耳にします。しかし本当にそうなのでしょうか?土の中に何年もいるのであれば、セミにとってその人生ならぬ「蝉生」において大きなウエートを占めているのは、地中にいる数年間で、地上に出てからの1週間というのは最晩年、余生のようなものではないのか?可哀相、というのは、あくまで人間の勝手な価値観による判断で、情緒が入りすぎではないのか?というふうな事を考えてしまいました。
人間で言えば人生の最後に青春がやって来るような感じなのでしょうかねえ。よくわかりませんが。
そんな事を考えながらセミの声を聞いておりますと、汗も引いてまいりました。

2003/8/14


Copyright (C) YOMIURI TELECASTING CORPORATION. All rights reserved