◆ことばの話1275「1000円よりお預かりします」


東京出張で泊まった品川のPホテル。インターネットで予約し、支払いはクレジットカードにしたので、チェックアウトの際には、消費税分だけを現金で払うことになりました。400円ぐらいでしたので、千円札を出しました。するとフロントの女性はこう言ったのです。
「1000円よりお預かりします」
これまで「1000円からお預かりします」というのは、飽きるほど聞いて、もう腹も立たなくなっていたのですが、「1000円より」というのは、初めて耳にしました。意味は「1000円から」と同じですね。でもコンビニエンス・ストアやファミリーレストランでは「から」、ホテルでは「より」。この違いはどこにあるのか?
思うに、「より」の方が文語調なので、より丁寧なイメージがあるのではないでしょうか。だから、一般的に使われる口語調の「から」ではなく文語調の「より」を使ったのではないか。コンビニやファミレスよりも「格が上」と思わせようとした言い方がこの「1000円より」ではないかな、と感じました。
どうでしょうか。
あ、そうそう、去年の11月のことなんですが、(ケータイメールのメモが出てきた)こんなこともありました。天満橋の喫茶店で、昼ご飯を食べたときの話。
会計は1417円。硬貨が増えるのが嫌だった私は、1520円を出しました。1500円だとお釣は83円。コインが50円玉1つに10円玉3つ、1円玉3枚と、合計7枚もお釣りが来て、サイフが重くなってしまします。1520円なら、お釣りは103円。100円玉1つに1円玉3枚の合計4枚で済みます。すると、レジのお姉さんがこう言ったのです。
「1520円でお預かりします。」
これはどうでしょう、初めて聞いた言い方です。「で」お預かり、なのです。こちらのこざかしい意図を敏感にキャッチしての「返しの言葉」だったのでしょうか、その後8か月ほど経ちますが、この「1520円で」という言い方は耳にしたことがありません。

2003/7/7


◆ことばの話1274「男のエステ」

7月14日、NHK衛星放送の大リーグ中継「ヤンキース対ブルージェイズ」を観ていたところ、バックネットのところの広告に目が行ってビックリ!なんとそこには日本語で、
「男のエステ、ダンディハウス」
と書いてあるではないですか。しかもしっかりと、ホームページのアドレスまで!!
アメリカの大リーグの球場の広告、この場合はカナダの球場ですが、そこに日本の企業の広告が、たとえば「SONY」とか「Canon」とかという企業名がローマ字(英語)で出るのはそれほど驚きませんが、日本語で出ているのを見ると、ちょっと驚きますね。しかもそれをNHKがしっかり映してしまっている。いいんでしょうかNHK、モザイクで消さなくても!?
そもそもこの場合の広告主が狙っている主なターゲットは、球場にいるお客さんではなく、日本のテレビの前にいる、日本語が読める視聴者です。(逆に言うと、アメリカのほとんどの視聴者と球場に来ているほとんどのお客さんは無視されているわけです。)その証拠に、この広告が出るのは、ヤンキースの攻撃の時だけ、松井が打席に出て来るかもしれない時だけなのです。ヤンキースの次の回の攻撃を見ていると、今度は別の広告に変わってカネボウの「ヴイタロッソ」というダイエット関連の食品の広が出てきました。「新」なんて感じも使われています。もちろん「ダンディハウス」や「カネボウ」は、メジャーリーグのその球場と契約したわけで、NHKと契約したわけではないですが、当然NHKの媒体(衛生放送のテレビ)を使って日本の視聴者・消費者に届けられるわけです。(結果から言うと、そうなります。)

実はこれと同じようなことを「ことばの話133『ハッサン2世杯の広告』」に書いていました。2000年の6月4日(日本時間の6月5日未明)にモロッコで行われた、ハッサン2世杯サッカー大会で日本は、98年のワールドカップ・チャンピオンのフランスと対戦。2対2、PK戦で2−4と惜しくも敗れましたが、大健闘したのですが、その時のモロッコの競技場内の広告看板に関してです。その時に看板を出していた企業は、「武富士」であり「住友生命」、「KIRIN」の「スイッチ」という、中田選手がCMをやっている飲料など、大企業ではあるが、主に国内向けの商品を扱っている企業だったのです。

『しかも看板は日本語。ということは、ターゲットは間違いなく国内=日本だけ、ということになります。テレビ中継を見るサッカーファンがターゲットなんでしょう。(まあ、ごく一部に現地で観戦する日本人もいたんでしょうが。)モロッコの現地で見ているモロッコ人の観客のほとんどは、読めないだろうし意味も分からないであろう、日本語の広告看板。しかし、そういった人たちにも「へえー日本語ってこんな字なんだなあ。」と思ってもらえれば、国際理解に一歩近づくような気もします。』

と3年前に書いています。これと同じことが、今回、野球でも起こったと。国際的なスポーツサッカーと同じような状況が、松井選手がメジャーリーグに行くことで、野球界にも訪れたということですね。

2003/7/17
(追記)

野茂投手が登板したドジャーズ球場での試合、野茂が投げている時(つまりドジャーズの守りの時で、相手チームが攻撃の時)、バックネットの下に、

「TOYOTA」

の文字が見えました。そのg、別の回では、

「KUBOTA」

の文字が。ローマ字(というか英語表記)ですから世界企業としてはそんなに驚くことではありませんが、参考までに。NHKがモザイクで消さないのか?という話ですが、よく考えたら今、どんなスポーツの国際大会でも、会場にあるスポンサーの広告板を写さずに済むのは無理です。看板のみならず、マラソンなどは胸に付けた「ナンバーカード」(昔は「ゼッケン」と呼んでいました)にも広告が入っていますしね。しょうがないですね。

2003/7/26

(追記2)

9月13日、テレビで見たシアトルマリナーズの本拠地、セーフィコ・スタジアムバックネットのところの広告には、カタカナで、
「ゲームボーイ・アドバンス」
とありました。日本語の広告も、もうアメリカのファンにも定着したのかもしれませんね。
2003/9/15

(追記3)

10月11日、サッカー日本代表とルーマニア代表の親善試合が、ルーマニアのブカレストで行われました。そのルーマニアの競技場のピッチの外に並んだ広告の看板は、
「¥SHOP武富士」「アミノサプリ」「KIRIN KIRIN」「麒麟淡麗(生)グリーンラベル」「お茶は生茶」「JAL日本航空」「SAISON CARD」「CASIO」「NISSAN」「adidas」
なんと「adidas」以外はすべて日本企業の広告。中継のテレビ画面上からは、この競技場がブカレストだとは分りません。まるで日本のようです。あの看板、日本から運んだのかなあ 。
2003/10/11



◆ことばの話1273「天国」

「平成ことば事情」の読者の方からメールを頂きました。御愛読ありがとうございます。その読者とは・・・愛知県岡崎市のお坊さんです。こんなメールでした。

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突然で失礼ながら、道浦さんへの質問を送信します。
 それは新聞やテレビ等の報道でしばしば用いられる「天国」という言葉についてで
す。たとえば「天国の母に捧げる金メダル」とか「天国でもきっと映画を撮りつづけ
るだろう」とか、死者の行方を天国と表現するのが一般的になっています。これはそ
んなに昔からではないように思います。
 私は真宗の僧侶ですが、私にむかって「天国のお母さんがあなたを見守っています
よ」と言われたら不愉快です。クリスチャンの人に私が「マザーテレサは浄土の仏と
なっておられます」と言ったら怒られますよね。それは相手の信仰を尊重していない
発言だからです。
 死者の帰す世界は、信仰にかかわるものですから、誰でも「天国」と表現するわけ
にはいきません。しかし仏教徒であれ何であれ、死んだらマスコミは全部「天国」で
す。坊さんが死んでも天国に行かせてしまいかねません。
 そこで質問
1、「天国」という言葉を使用するに当たって、関係者が仏教徒かキリスト教徒か回
教徒か、それとも・・・と配慮することはないのでしょうか。
2、放送界でこのことについて論議したり、一定の基準を作ったりということかあっ
たでしょうか。
3、道浦さんはこの問題をどう考えますか。
 以上が私の質問です。私見を言えば、たぶん、ほかに適当な言葉がないので、まあ
「天国」なら仏教徒でも容認してくれるだろうということではないでしょうか。歩行
者天国とかナントカ天国というのも人口に膾炙されているし・・・、ということで
しょうか。しかし、私の思い違いかもしれませんが、以前は「あの世」と言っていた
ような気がします。これならどの世か特定していないので良いと思うのですが、「あ
の世」ではまずい事情があったのかもしれません。
 お忙しい中、恐縮ですが、お答えいただけたら幸いです。
                 岡崎市 真宗大谷派 K寺住職 S


あれまあ、難しい質問だこと。
たしかにわれわれは、あまりふだんは宗教を意識することなく「天国」という言葉を使いますよね。もちろん「極楽」も使いますが、頻度は「天国」の方が高いでしょう。ふだん使う言葉としての「天国」と「極楽」は同じカテゴリーに分類されているのです。「極楽」の方が「やや和風」のイメージがありますが。
例えば、温泉につかって「気持ちがいいなあー」という時に口を突いて出てくる言葉は、
「ハァー、極楽、極楽」
です。決して「天国、天国」ではありませんね。
佐々木さんがおっしゃるように「歩行者天国」「マンガ天国」「洋酒天国」「釣り天国」など、「○○をしほうだい」「○○をする人、好きな人が自由に○○をできる場所」というニュアンスの場合は「○○天国」という形の言葉が定着していて、決して「○○極楽」とは置き換わりません。もうこの場合の「天国」は、宗教からは完全に分離されていて、「パラダイス」の訳語としての意味合いを持っていると思います。言いかえると「桃源郷」あたりは使えるかもしれません。佐々木さんのおっしゃる「あの世」は、対語としてあるのはもちろん「この世」ですね。これはこれで生きている言葉だとは思いますが、今ここで使われているような「天国」の代わりに「あの世」を使うのは、無理がありますね。
もともと「天国」の反対概念は「地獄」です。「生き地獄」とか「アリ地獄」「借金地獄」などなど、こちらも比喩表現として、宗教を離れた形でよく使われます。そしてこの「地獄」は、「天国」の反対語であると同時に、「極楽」の反対語でもあります。つまり、
「天国と極楽は、ともに反対概念が『地獄』だから容易にすり替わる」のではないでしょうか?
キリスト教が日本に入ってきた時には、既に仏教の「極楽と地獄」という概念があったはずです。その中でキリスト教の「天国と地獄」の概念・・・を教え布教しようとしたのでしょう。もちろんその頃には、英語・・・ではなくスペイン語かポルトガル語かオランダ語だったのでしょうが、英語で言うところの「インフェルノ」に「地獄」という言葉をあてて翻訳したと同時に、その対立概念の言葉に「天国」という訳語を付けた。「Heaven」ですかね、元の語は。それがすべてのきっかけではないでしょうか。約400年前の話です。
おそらく、キリスト教の宣教師が訳したのでしょう。もしかしたら隠れキリシタンの歴史を調べると、そのあたりが明らかになるかもしれません。「日葡辞書」にはどう出ているか、今度また調べてみたいと思いますが。そうそう、「日葡辞書」というのは、当時ニホンにやってきたポルトガル人宣教師が作った、日本語とポルトガル語の事典で、16世紀後半から17世紀初めの日本語の形が記されている貴重な辞書なのです。たしか1603年に出来たから、今年でちょうど400年。江戸幕府と歴史が同じなんですね。
『日本国語大辞典』を引いてみました。


「天国」(「てんこく」とも(1)キリスト教で、信者の死後の霊を迎えると信じられる世界。霊魂は神から永久の祝福を受ける。神の国。(例)引照新約全書(1880)馬太伝福音書・三「バプテスマのヨハネ来りてユダヤの野に宣伝へて曰けるは天国(テンコク)は近けり悔改めよ」(以下略)
(2)(比喩的に)苦難のない、楽しい世界。楽園。(例)和蘭皿(1904)<生田葵山>道すがら「大方母と同じく夢の天国へ往って居たのであらう」




つまりこの(2)の比喩的な「天国」ですね、われわれがよく使うのは、1904年にはその用例があるということです。「地獄」も引いておきましょう。
「地獄」(梵naraka(那落迦)、niraya(泥犁)の訳語)
(1) 仏語。六道の一つ。現世で悪業(あくごう)を重ねた者が、死後その報いによって落ちて、責め苦を受けるという所、またはその生存のあり方をいう。(以下略)
(2) キリスト教で、悔い改めのない罪人が死後幾ところ、あるいはその状態をいう。


やはり「地獄」は、仏教もキリスト教も同じような概念で、同じ名前なのですね。だからその対立概念(=天国)も(極楽と)同じになってしまう傾向にあるかもしれない、という説も、少しは説得力があるのではないでしょうか。
Sさん、こんなところで、とりあえずいかがでしょうかね。

2003/7/11


(追記)

「天国」「地獄」のほかに、「悪魔」も比喩的に用いられますね。もちろん「神」も。比喩的に用いる際には、あまり直接の「宗教」は意識しないのではないでしょうか。
ほら、スポーツの比喩で、他のスポーツを用いるようなケースと似ているかもしれませんよ。「平成ことば事情1220・決定打」もご覧ください。

2003/8/14



◆ことばの話1272「デジタル万引き」

7月5日の朝日新聞夕刊に、目新しい言葉が出ていました。
「デジタル万引き」
デジタルカメラ「を」万引きするのではありません。デジタルカメラ「で」万引きするのです。つまり、最近本屋さんの店先で増えている、
「カメラ付きケータイで料理のレシピや映画の上映時間といった必要な部分だけを写す立ち読み」
のことを、こう呼ぶのだそうです。現時点でこれを規制する法律はなく、個人的に使う以上、撮影行為が著作権の侵害に当たるかどうかは微妙。しかし、こうやったパチリした人は、その雑誌や本を買わないわけで、書店や出版社からは、「立ち読みの域を越えている」と問題視する声が上がっているとのこと。社団法人日本雑誌協会では、「カメラ付き携帯電話などを使って情報を記録することはご遠慮ください」と訴えるポスターを3万枚作製し、全国2万店の書店に配布したそうです。
私もカメラ付きケータイを購入して8か月ほどになりますが、当初は、
「そんなん、何撮るねん。撮るものあらへんやろ」
と思っていたのですが、これが意外と楽しくて、ついつい撮ってしまいます。そしてメモ機能としても便利でもあるのです。
しかし確かにカメラでメモしてしまうと、その雑誌は売れませんよね。以前、売り物の雑誌の必要なページだけビリビリやぶいて持っていった人を見掛けて、呆然と見逃してしまったことがありましたが、カメラでの撮影ですと、売り物そのものを傷付けるわけではないので、カメラを撮る側にも罪の意識は低いのでしょう。
最近たまに行く、近くのスーパー銭湯の脱衣場にも「カメラ付きケータイの使用はご遠慮下さい」という注意書きが出るようになりました。確かにそんなところでカメラを使われたら、タマったもんじゃぁありません。
7月15日の毎日新聞メディア欄「出版ウォッチング」というコラムに、本の未来を考える「出版メディアパル」編集長の下村昭夫さんという方が、
「万引きも『デジタル』」
と題して、この件に関して書いてらしゃいます。それによると、
「マガ人はマナーを守る」
と書かれたポスターが、雑誌愛読月間が始まる今月21日から書店の店頭に張り出されるそうです。そこには「情報を記録することは、ご遠慮下さい」と書いてあって、いわゆる「デジタル万引き」防止を訴えているのだそうです。本屋の店頭の本は商品見本であって、手にとって常識の範囲で見るのは問題ないが、本にとっては「情報が命」、その情報を盗むのはやはり犯罪である、という論調なんですが、残念なことに「情報を盗む行為」を直接取り締まる法律がないのもまた現状だそうです。
Googleで検索すると、「デジタル万引き」は893件ヒットしました。(7月11日現在)思ったより多いですね。
便利な道具は、実は使い方を間違うと、いろんな意味で危険なものでもある、ということを肝に銘じておかなければなりませんね。 

2003/7/15


(追記)

『週刊文春(2003年7月31日号)』小林信彦さんの「人生は五十一から」、タイトルは「カメラ付き携帯は取り上げろ!」というタイトルで、この件に関して書いています。そして、ニューヨークの書店やビデオ店での対応を記して最後に、
「カメラ付き携帯も、入口で取り上げればよいのである。バッグ、その他、荷物も取り上げれば、書店側は万引きも防げる。要するに、書店側の肚(はら)一つだと思う。」
と書いています。
また、実際に雑誌に載ったこの「雑誌愛読月間」の広告を見てみると、タレントで、2003年度のイメージガールの吉岡美穂さんが写っていて、大きな見出しは、
「私は、マガ人(ジン)。」
と書いてあるのですが、肝心の「デジタル万引きの防止」に関してはどこに書いてあるかと探したら、一番下の方にホントに小さく小さく、
「雑誌マナーアップキャンペーン実施中:店内でカメラ付携帯電話などを使って情報を記録することは、ご遠慮ください。」
とありました。
遠慮せんと、大きく書けばいいのにな!!
と思いますよ。

2003/7/31


(追記2)

8月12日の日経新聞夕刊に、

「"デジタル万引き"に苦慮」
「カメラ付き携帯を悪用」「雑誌買わずに撮影」「法規制なくマナー頼み」

という記事が載っていました。本屋さんだけではなく、最近は美術館などでもこの被害に遭っているそうです。その美術館担当者の弁が的を射ていると思います。

「手軽さのためか、撮る側に罪悪感が乏しい。」


昨日(8月13日)には、兵庫県宝塚署のおまわりさんが、交番に来た若い女性のスカートの中をデジタルカメラで盗み撮りするという破廉恥な事件も起こりました。これも手軽さゆえに、倫理観も働かなくなっていたのでしょうか。

「撮ることは盗ることなり」

そういう意識を持たせないとダメなんでしょうね。こういった教育は、一体どこでやればいいのでしょうか・・・・。いっそのこと、ケータイカメラの所持は「免許制」にしたらどうでしょうか?

2003/8/14



◆ことばの話1271「バカがはやっている」

このところ、どうも「バカ」が流行っているようです。バカに流行っている。
いや、別にバカのフリをする人が多くなったということではなく、「バカ」という言葉をつかった本が目立つ、という話です。
これに関しては、評論家の斎藤美奈子さんも書いていましたが、特にこの「バカばやり」を決定的にしたのは、養老孟司さんの『バカの壁』(新潮新書)がベストセラーになっているということでしょう。私も我慢していたのですが、ついに買って読んでみました。思っていたよりもおもしろかったです。こないだも近くの書店で50代半ばくらいのおばさんが、

「あの、『バカの壁』って本はあるでしょうか?」

と本を整理している最中の店員さんに声を掛けたところ、その店員さんが並べていたのがまさに『バカの壁』だったという、なんともバカバカしい場面に出会ってしまいました。店員さんは思わず「よく見てから聞けよ、バカ」と喉元まで出掛かった声を飲み込んだのではないでしょうか。
このほか、私の家にあったタイトルに「バカ」の付く本には、

『バカにつける薬』(呉智英)
『まれに見るバカ』(勢古浩爾)
「まれに見るバカ女」(別冊宝島)


がありました。こんなに人をバカにしてもいいのだろうか。呉智英さんの『バカにつける薬』はずいぶん前のものですが、それ以外は、ここ1、2年に出た新しい本です。
ひと昔前、女優の桃井かおりさんが出たテレビコマーシャルで、
「世の中、バカが多くて疲れません?」
というセリフのものがありましたが、「なんという失礼なセリフだ!」と糾弾する声が高く、すぐに、
「世の中、おりこうが多くて疲れません?」
というセリフに変られたということがありましたが、これだけ「バカ」が前面に押し出される現在であれば、セリフを変更しなくても良かったかも知れません。少し時代を先に進みすぎていたCMだったのでしょうか。
そんなことを考えていたら、7月9日の朝日新聞夕刊の文化欄に、ノンフィクション作家の吉岡忍さんが、

「『自分以外はバカ』の時代〜ばらばらの個人、暗鬱な予感」

というタイトルの文章を書いていたので、思わず読み入ってしまいました。それによると、

「取引先や同僚のものわかりが悪い、とけなすビジネスマンの言葉。友達や先輩後輩の失敗をあげつらう高校生達のやりとり。ファミレスの窓際のテーブルに陣取って、幼稚園や学校をあしざまに言いつのる母親同士の会話。相手の言い分をこき下ろすだけのテレビの論客や政治家たち・・・。ここに共通する、きわだった特徴がある。はしたない言い方をすれば、どれもこれもが『自分以外はみんなバカ』と言っている。自分だけがよくわかっていて、その他大勢は無知で愚かで、だから世の中うまくいかないのだ、と言わんばかりの態度がむんむんしている。私にはそう感じられる。(中略)『大衆』という、自分自身もそこに入っているのかいないのかが曖昧な、使いにくい言葉をあえて使えば、いまこの国は『自分以外はみんなバカ』と思っている大衆によって公正されているのではないか、というのが方々歩いてきた私の観察である。(中略)この現実はやっかいだ。自分以外はみんなバカなのだから、私たちはだれかに同情したり共感することもなく、まして褒めることもしない。(中略)自己の責任や葛藤を忘れて、威勢良く断じるだけの態度が露骨となる。そこに私は、この国がこれからいっそう深く沈み込んでいく凶兆を読み取っている。」

うーん・・・反省しきり、です。こういう思いを僅かでも持ったことのない人は、どのくらいいるのでしょう。私は、正直に言いますと、こういう思いを持ってしまうことはよくあります。
またそんなおりもおり、長崎の駿君殺害事件に関連して鴻池防災担当大臣が、

「犯人の少年の親は、市中引き回しの上打ち首にした方がいい」

というような発言をしました。少し前には、

「レイプをするくらいの方が、元気があってよい」

と言った国会議員がいたり、

「子供を産まない女性にまで、税金で年金を払うのはおかしい」

というようなことを胸を張って言う、前・総理大臣がいたり(まあ、この人は、以前からそういう人でしたが)と、どうも永田町界隈に「おりこう」が多くて疲れる状態なのです。
思えば、「感動したっ!」という言葉が出始めた頃から、この国の舵取りをしている人たちは、大きくそちらの方に舵をきったのでしょう。それに気づかないで一緒になって舵をきってきたのが、われわれ『「自分以外はバカ」と思っている大衆』に他ならないのでではないでしょうか。
これが、「この国のかたち」なのか・・・。

2003/7/11


(追記)

今日、本屋さんが配達してくれた『月刊言語2003年8月号』(大修館書店)の亀井肇さんの連載「新語・世相語・流行語29」で、「バカ本」というのが取り上げられていました。それによると、

「養老孟司の『バカの壁』(新潮選書)がベストセラーになったことから、タイトルに『バカ』を付けた本を一括りにしてまとめたもの。」

とあり、先駆的存在としての呉智英『バカにつける薬』(双葉社)のほか、勝谷誠彦『バカとの闘い』(新潮社)、勢古浩爾『まれに見るバカ』(洋泉社新書)、小谷野敦『バカのための読書術』(ちくま新書)、岩槻謙司『なぜ、男は「女はバカ」と思ってしまうのか』(講談社+α文庫)など、も紹介されています(タイトルだけ)。
ようけありますね。でも、大体見たことがあるってことは、私もやっぱり、バカ??

2003/7/14


(追記2)

荷宮和子『若者はなぜ怒らなくなったのか』(中公新書ラクレ:2003,7,10)という本を読んでいると、こんな一文が。



「『決まっちゃったことはしょうがない』と思い、それ以上のことは考えようとはしない、そんな人間のことをはたしてなんと呼べばよいのだろうか。
『バカ』である。
それ以外の呼び方はないように思える。近ごろでは,「バカと言うほうがバカだよね(笑)」といった小賢しい言い回しが一般化してしまっているが、『バカ』と呼ぶ以外にない相手のことは、私は『バカ』と呼ぶことにしている。そう、団塊ジュニアを含む『近ごろの若いもん』はバカなのだ」




断言してしまってます。
この荷宮さんという人、「1963年神戸市生まれの女子供文化評論家」だそうです。神戸大卒。あ。脇浜アナとおんなじだ。断言してるし。いいのかなあ。

2003/7/19
(追記3)

雑誌を整理していたら、
『「バカの時代」でわかる「現代」』
と大きな黄色い文字で書かれた表紙の『ダカーポ』が出てきました。2004年11月17日号の特集です。サブタイトルは、
『「バカ」ブームのこの1年。なぜ「バカ」が大潮流になったのか。本当のバカは誰か?』
でした。やっぱり「バカ」は流行っていたのでした。

2005/3/3


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