◆ことばの話1180「ライフライン」

先日の関西地区の新聞用語懇談会の席で、カタカナ語について話し合っていた時のことです。
「『ライフライン』という言葉は、いつ頃から使われ始めたか?」

という質問が出ました。1995年の阪神大震災をきっかけに、私も耳にし、使うようになったし、一般的になったのはやはり阪神大震災以降だということは、まず間違いのないところですが、それ以前にも使われていたのかどうかということです。誰もはっきりとは答えられませんでした。
会社に帰ってから、後輩の植村アナウンサーにお願いして調べてもらいました。新聞データ検索を使って、新聞5紙で「ライフライン」をキーワードに検索したのです。その結果、1975年から2003年5月20日までの「ライフライン」の総登場回数は5727回でした。そのうち、実に93,9%にあたる5378回は、1995年以降に出てきています。1994年以前の20年間(1975年から)での「ライフライン」の登場回数は、349回に過ぎません。6,1%です。やはり「阪神大震災以降に使われるようになった言葉である」ということは、数字の上からも実証できたでしょう。
さて、それでは「ライフライン」の初出です。これは、1981年5月23日の日経新聞朝刊の記事でした。文字数114字です。

「地震から水道管やガス管、送電線など生活に欠かせない施設(ライフライン)を守る技術を日米が共同で開発していくことになった。茨城県・筑波研究学園都市にある建設省土木研究所で開かれていた日米天然資源開発会議の部会で22日決まったもの。」

この記事の中の、( )の中に「ライフライン」の文字が見えます。日米の共同研究ならば、「ライフライン」は和英英語ではなく、ちゃんとした英語なのでしょうかね?もともとは専門用語から出たみたいですね。
なお、1975年から2003年5月までの、年ごとの登場回数は以下の通りです。

1975年〜1980年・・・・0件
81年・・・ 2件
82年・・・ 2件
83年・・・ 3件
84年・・・ 4件
85年・・・ 1件
86年・・・ 7件
87年・・・10件
88年・・・15件
89年・・・31件
90年・・・31件
91年・・・29件
92年・・・41件
93年・・・83件
94年・・・90件
95年・・1783件
96年・・・482件
97年・・・311件
98年・・・258件
99年・・・785件
2000年・・・661件
01年・・・470件
02年・・・403件
03年・・・225件(5月20日まで)




ということですね。やはり、1994年までは2けたしかなかったのに、1995年は4けた。その後も3けたで推移していますが、やはり、毎年その件数が減っています。
「天災は忘れたころにやってくる」という寺田寅彦の言葉を考えなくてはならない時期かもしれません。

2003/5/22

(追記1)

『新語・造語の生みの親』(青春出版社)という本によると、「ライフライン」という言葉は、
1971年、アメリカ・サンフェルナンド地震の調査でUCLAのマーティン・デューク教授がライフライン地震工学の研究を始めたのが最初」(129ページ)
とのことです。
2007/1/12
(追記2)

2007年9月2日日経新聞のカラーの全面広告で、
『大災害時に、企業KDDIができることは何だろう。「水」?「炊き出し」?いや、まずは「情報」というライフラインだ。』
「ライフライン」が出てきました。前日9月1日が「防災の日」だったのですが、その翌日ですからね。防災意識の高いこの日あたりに、こういった広告を考えて載せているのでしょうね。なお今日は「9・11」から6年です。
2007/9/11


◆ことばの話1179「お米を洗う2」

「ことばの話31」で「お米を洗う」という話を書きました。1999年11月ですから3年半ぐらい前です。その時は「コメは研ぐもので、洗うものではないよ」という話を書きました。その後、2000年ぐらいになって「無洗米(むせんまい)」というのが出てきて、家庭の中に入ってきました。すでに研いであるので、研がなくてよいということで、それに「無洗」という字を使ったわけですね。
さてさて、この「米を洗う」ということに関して、新しい発見をしました。
「せんまい」という言葉が辞書に載っているのに気づきました。漢字で書くと、

「洗米」

これで見ると、米は洗うものなのか?と思ってしまいます。この「洗う米」の「洗米」とは一体なんぞや!?『新明解国語辞典』によると、



「洗米」=(神に供えたり、魔よけにまいあたりする)きれいに洗った精米。あらいごめ。



なんだそうです!このほか「せんまい」には「饌米」というのも載っていました。これは

「神前に供える洗米」

だそうで、「洗米」とほぼ同じ意味ということになりますね。
つまり、ご飯を炊くために水で米を洗うのは「米を研(と)ぐ」と言い、神様のために捧げるために米を水で清めることは「米を洗う」と言う、ということなのですね。
「米を洗う」という言葉はないということではなく、同じような所作・動作をしていても、その目的によって呼び方が変わって来るということなのです。ハアー、勉強になりました!

2003/5/18



◆ことばの話1178「自転車を押す・引く」

新聞用語懇談会放送分科会でご一緒させていただいているS放送のIさんから質問のメールがきました。

「先日ローカルニュースで自転車の人がひき逃げされる事件がありました。その原稿で、『被害者は路側帯を、自転車を引いて歩いていたところ』という表現があったのですが、『自転車は「引く」ではなく「押す」ではないか?』という疑問が出ました。重さで判断して『オートバイは「押す」、自転車は「引く」』という人もいました。自転車の場合はどちらなんでしょうか?」

というものでした。ははあ、なるほど。私は個人的には「自転車を押す」ですね。「引く」とは言わないな。
とりあえず、いつものようにインターネット検索のgoogleで調べました。



「自転車を押す」=759件
「自転車を引く」=  98件       
(2003年5月13日調べ)



で、やはり私と同じ感覚の方の方が多いようです。7:1くらいで「押す」人の方が多いようです。
「自転車を引く」を使っている人を見てみると(全部ではないですが)、長野県、山梨県の人が使っているようです。もしかしたら方言かも?
NHK放送文化研究所の塩田さんにメールしたところ、

「個人的な感覚としては、上り坂でこげなくなった自転車には『押す』を使う気がする。『引く』は『押す』よりも、『力を込めて』というニュアンスがないように感じる。私としては『自転車を引く』は言わないと思う」


というメールが返ってきました。
他のもの、例えば、「大八車」は「引く」ですね。「手押し車」は、文字どおり「押す」です。そこから考えると、自転車のハンドルとその人の位置関係が問題になってくるのではないでしょうか。ハンドルより前にいれば「引く」、ハンドルより後ろにいれば「押す」。これでどうでしょうか?普通はハンドルより後ろにいるでしょうから、「押す」を使う人の方が多いのではないでしょうか。「引く」を使う人は、位置は関係なしに、「動力としての人」が、自分だけでは動かない自転車を「牽引」している、というふうに考えているのではないでしょうか。

皆さん、ご意見お待ちしていまーす!!

2003/5/18


◆ことばの話1177「"てちゅう"と"ほせん"」

NHKの衛星放送でやっていた囲碁の名人戦の中継番組の冒頭を見ました。司会をしているのは、アマ六段の女性棋士の方。素人とは思えない、スムーズな語り口でした。しかし、1か所だけ、「おや?」と思う表現がありました。

「この若い挑戦者が、タイトルを"てちゅう"に収めることができるのでしょうか?」

一瞬、聴き間違いかな?とも思ったが、確かに言ったよね、「てちゅう」。それも言うなら、
「しゅちゅう」
でしょう。漢字で書くと「手中」。「手の中」という意味だから、「掌中」と書いて「しょうちゅう」とも言いますね。「焼酎」ではありません。
おそらく、彼女は「しゅちゅう」という言葉を、話し言葉として使ったことがなかったのでしょうね。書き言葉で「手中」という文字を見たことがあっても。
NHKに出ている人の話といえば、先日、久しぶりにわがアナウンス部を訪ねてくれた、元アナウンス部長のS氏が、こんな話をしてくれた。

「こないだ、NHKの夕方ニュースを見てたら、女のアナウンサーが、ほせんほせん、言うとんのや。」

????なんのことでしょうか?

「神戸港にな、"ほせん"が入港した、言うてな、そのあともきれいな"ほせん"ですねえ、とか言うててな。さすがに3回目に"ほせん"といったのを見かねて、隣の男のアナウンサーが、『はんせん、ですね』とフォローしてたけどな。『帆船』も知らんのやなあ。」

ということ。ははあ、「帆船」を「ほせん」と言っていたというわけですか。きっと彼女は、「はんせん」という言葉に当るまでは、「順風まんぽ」な人生を歩んできたんでしょうねぇ・・・。(正しくはもちろん「順風満帆(じゅんぷうまんぱん)」ですよ。)
そこで私も一言、

「そういえば、紅白の司会もして、スポーツやってる有名な女性アナも、このあいだスペインのバルセロナからの中継で、教会の前で『神父さん』 にインタビューしてるのに、『牧師さん』と言ってました。あとで東京のスタジオが『神父さんでした』と訂正していましたけどね。『カトリックは神父さん、プロテスタントは牧師さん』なんて常識だし、『スペインはカトリック』に決まってるのに、『牧師さん』なんて・・・ねえ。」


といったところ、S氏、

「お、そうなんか。それはワシも知らなんだ。あんまり人のことばかり言うてても、いかんな。このへんで退散するわ。」


と、帰られたのでした。
「常識」というものが、人によって違うのは「常識」ですが、あまりに幅の狭い常識だとコミュニケーションが取れません。出来るだけ常識の幅を広げていきたいものですね。
(今日は、とてもやさしいミチウラさんでした。)

2003/5/18



◆ことばの話1176「カメラ小僧」

早朝の番組「あさイチ!」の本番が終わって、スタジオ横で、みんなで「ズームイン!!SUPER」を見ていた時のこと。アイドルの周りにカメラを手に集まり写真を取りまくる、いわゆる「カメラ小僧」の話になりました。そして、

「アイドルを撮ったり、レースクイーンやナレーターコンパニオンの女性を最前列で撮ったりしている若い男のことを、こう言いますよね。」

とOアナ。妙に詳しい。この「カメラ小僧」について疑問が出ました。

「カメラ小僧って、なんで"小僧"なんだろう?」

という疑問が出ました。確かに。「小僧」と言っても、みんなもう、

"ええ年したおっさん"

ばかりです。ほかにこの「○○小僧」という呼び名のものがあるか、探してみました。
「小便小僧」は、ちょっと意味が違いますね。ほかには・・・いざとなると、なかなか思いつきません。こういう時は、やっぱり『逆引き広辞苑・第五版対応』(岩波書店)かな。さっそく引いてみました。



「悪戯小僧、猩猩(しょうじょう)小僧、高師(たかし)小僧、長松(ちょうまつ)小僧、鼠小僧、洟垂れ小僧、膝小僧、一つ目小僧、弁天小僧、三つ目小僧」



以上の10語が載っていました。「カメラ小僧」は載っていないなあ。それにしても「猩猩小僧」とか「高師小僧」「長松小僧」ってどんなんやろ?『広辞苑』を引いてみると、
「猩猩小僧」=玩具の一。能の「猩猩」の姿形をした小さな人形。富貴・延命の象徴として、からくり細工などに作られ、江戸中期に流行。



って、「猩猩」って何よ。想像上の動物でタヌキのお化けみたいなもの?

「猩猩」=
(1) <ア> 中国で、想像上の怪獣。体は狗(いぬ)や去るの如く、声は小児の如く、毛は長く朱紅色で、面貌人に類し、よく人語を解し、酒を好む。
<イ> オラン・ウータンのこと。
(2)   よく酒を飲む人。大酒家。
(3)   酒・酢などの上に集まる虫。さ子(さし)。

うーん、半分当って半分はずれた。オランウータンですかい。次、行きましょう。

「高師小僧」=管状・樹枝状の褐鉄鉱。鉄分が地中の植物体のまわりに付着してできたもの。愛知県豊橋市高師ヶ原、その他各地に産する。その形が幼児・鳥などを連想させるためにこの名がある。

ということは「小僧」はやはり「幼児や(なぜか)鳥」を連想させるものに付くわけですね。もう一つのわけの分からない「小僧」、見てみましょう。

「長松小僧」=乞胸(ごうむね)乞食の一種。安永・天命(1772〜1789)頃流行の、乞食の持っていた人形の名から起る。右手に3升入り塗酒樽を捧げ、左手には美しく着飾った2尺ばかりの禿(かぶろ)人形を舞わせながら、酒樽に米銭を乞いうけて歩いたもの。



なんだか、分かったような、分からないような。でもこんな言葉、使ったことないぞ。
こうしてみると、「カメラ小僧」の元になった、というか似たような意味で載っていたのは、「悪戯小僧」「洟垂れ小僧」あたりですかね。
考えるに、「カメラ小僧」と「小僧」をつけて呼ぶ方の心理としては、その行為を行なっている人に対して、ごく軽いものではありますが、侮蔑・からかいの気持ちを持っているのではないでしょうか。それはとりもなおさず「小僧」に対する少し見下した気持ち(自分の方が優位に立っている=年齢的に?か。)と親しみの感情に通じると思います。また「カメラの被写体に執着する様子が、子供のようである」ということも、この言葉には込められているのではないでしょうか。その一方で、カメラ本体を、あるいはカメラ撮影という行為を趣味にしている多くの人のことを指して「カメラ小僧」とは呼びませんね。
そうすると、カメラで子供のような関心・興味の対象を撮影する人たちのことを「カメラ小僧」と呼べばいいのでしょうか?

この「小僧」には、まるで子供のようにある物事に熱中して脇見も振らない、というような意味を感じます。それがまた「大人げない」場合に「小僧」と呼ばれるのでしょう。もちろん、実年齢もそもそもは「小僧」にふさわしい幼さがあったのかもしれませんが、今となっては冒頭に書いたように「ええおっさん」の年齢になってきているにも関わらずに「小僧」と呼称されます。もう、「カメラ小僧」という名称を返上する時期に来ているのかもしれませんね。現在の「カメラ小僧」が引退した後に、また新たな「カメラ小僧」は生まれてくるのでしょうかね。

2003/5/15


(追記)

新人アナウンサーの小林杏奈さんたちと昼ご飯を食べていた時のこと。ちょうどその日の午前中に、読売新聞の記者さんから、小林アナの受験生時代のことについて取材を受けたということだったので、どんな話をしたのか聞いてみました。その時彼女の口から出た言葉に、

「数学小僧」

というのがありました。小林アナは意外にも(?)数学が得意だったそうです。1、2、3、4と順番にわかっていくのではなく、ある時突然、1を聞いて10がわかる、というところが数学のおもしろさなんだそうです。またその反面、国語が苦手だったというのです・・・。
かく言う私は数学が苦手で、国語は得意。特に小学校低学年の時などは漢字が大好きで、熱を出して学校を休んでいる時でも、漢字の練習帳に向かっていたくらいだ、という話を彼女にしたところ、

「道浦さんって『漢字小僧』だったんですねー。」

と言われてしまいました・・・。
そうさ、おれは「漢字小僧」だったんだぜえ!なんでもかんでも「小僧」にするなよな。

2003/5/31


(追記2)

何人かの方からメールを頂きました。それによると、

「『カメラ小僧』は、たしか1975年前後にあった『GORO』という青年誌で、篠山紀信の写真グラビアコーナーに赤塚不二夫の描くキャラクターが載っていて、そのキャラクターの名前が『カメラ小僧』と言った。」

というものです。また、

「篠山紀信は『カメラ小僧の世界旅行』というタイトルの本もあり、当初の『カメラ小僧』は篠山紀信を指す固有名詞的な働きをしていたのではないか。それが普通名詞化して、写真をパチパチ撮る素人写真家という意味になっていったのではないか。」

というものでした。そういえば『GORO』にそんなキャラクターがいたような気もします。貴重なご意見をありがとうございました。

2003/6/13

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