◆ことばの話980「校長先生は・・・」

校舎改築問題を巡って揺れる滋賀県豊郷町の豊郷小学校で、1月7日、三学期の始業式が行われました。それを前に、なんと校長が辞表を提出し受理されてしまいました。
その校長が去年12月の2学期終業式の時に児童に向かって話した内容を、TBSのお昼のワイドショーで紹介していました。その言葉のはじめは、



「校長先生は・・・」



でした。
なぜ、自分のことを「校長先生」と呼ぶのでしょうか?おかしくないですか?もし、会社で社長が訓示の時に、自分で自分のことを、



「社長は、こう考えています。」



と言ったり、総理大臣が所信表明演説で、自分で自分のことを



「総理は、こう考えています。」



と言ったらおかしいでしょ?まあ、おかしいからこそ、漫才コンビの「まるむし商店」(でしたっけ?)が、昔ギャグで、
「校長先生は、知っています。」
なんてのをやって受けていました。
しかしこの、校長が自分のことを「校長先生」と呼ぶのと同じようなことは、子供に対してその父親、母親、祖父母が、



「おとうさんはね・・・」「おかあさんはね・・・」「おじいちゃん(おばあちゃん)が・・・」



と言うのと同じパターンです。共通しているのは、



「(話している)相手が子供」



だということです。確かに理解力のまだ低い子供に対して、子供の立場に立った物言いは必要かもしれません。だから「校長先生は・・・」も有効なのでしょう。
しかし小学校高学年の子供にとっては、



「バカにされている」



と感じるのではないでしょうか?
中学生・高校生に向かって「校長先生はね・・・」という物言いは、ありえませんものね。
小学校レベルでも、自分のことを「校長先生」あるいは「先生」と呼ぶのをやめるところから、“先生”方は考え直してはいかがでしょうか。



2003/1/7


◆ことばの話979「普通の国」

新年、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。



おそらく1月中に連載1000回を迎えられそうです。今日、1月5日が私は仕事始め。年頭にあたって、感じたことを、さっそく書いていきますね。



今朝(1月5日)読売新聞朝刊の「政治を問う〜識者インタビュー」に、社会学者で東大助教授の佐藤俊樹さんが出ていました。「中流崩壊論争」を巻き起こした『不平等社会日本』(中公新書)の著者。顔写真を見て、40代後半かなと思ったら、何と39歳!年下であった!あの本は、たしか、書評を読んで立ち読みして難しそうなので買わなかったもの。「中流崩壊」について「そんなわざわざ言うほどのことかな」と思ったのも買わなかった(ちゃんと読まなかった)理由の一つだったのですが、最近はたしかに佐藤さんの言うような「中流崩壊」を、もっと言えば家庭の経済状況の「二極化」が進んでいることをいろんな点で感じるのです。
たとえば正月三日、梅田の百貨店に行けば、もう押すな押すなの大混雑。



「こんなにお客さんが来ているのに、なぜ不況なんだろうか?」



と思うほどの人出です。その一方で、大阪城公園には、少し見ない間にまた青いテントの数が増えている。(余談ですが、百貨店を一歩出ると、なんとデザイナーズ・ブランドの
「TAKEO KIKUCHI」のロゴが入った紙袋を持ったホームレスのおじさんが歩いている。ブランドの「意味のなさ」を象徴しているかのような・・・。別にTAKEO KIKUCHIが意味ないと言っているわけではありません。おじさんは紙袋を拾っただけでしょうから。)
とにかく、大阪城公園の青テントに住んでいる人たちは、おそらく一人も、「押すな押すなの百貨店の中」には来ていないはずなのです。百貨店の中に入っている人は、「中より上」の経済状況にある人たちなのでしょう。少なくとも「その日の暮らし」には困っていない人たちでしょう。
また、NHK放送文化研究所が先月の「放送研究と調査」で報告していた、子供の勉強時間の調査。ここでは「母親が高度な教育を受けている子どもほど、勉強時間が長い」という結果が出ていました。つまり勉強しやすい環境にあるということです。これも「勉強しやすい状況にある子はさらに学力が伸び、勉強しにくい状況にある子はなかなか学力が伸びない」という二極化が進んでいることを示しています。
つまり佐藤さんの言う「中流崩壊」という内容に関して、最近うなずけることが多いということなんです。



それはさておき、インタビューの冒頭で佐藤さんは、
「ここ二、三年の日本社会の変化で特に目立つことが三つある。一つは『特別な国』から『普通の国』への意識の変化だ。」
とありました。また佐藤さんは、



「ワールドカップで顔にペインティングして『君が代』を歌っていた若者が、靖国神社や日本再軍備を特に支持しているわけではない。ああいう国旗や国歌に対する態度こそ、まさに『普通の国』のそれである」



と述べています。



二つ目の大きな変化は「国内政治の大きなテーマだった中央対地方、都市対農村といった図式が崩れて来ている点だ。」とし、きつい言い方をすれば、「地方が“薄められた都会”でしかなくなっている」と主張しています。



そして三つ目は、「モノの豊かさから友人、血縁といった『縁』の豊かさへの転換だ」と述べています。



これを読んで感じたことを書いていきます。まず第一の点、
「『特別な国』から『普通の国』への転換」。
これまで日本という国は、「国際社会の中での日本」という位置づけを、社会の中でほとんど考えても来なかったし教えてもこなかったのではないか。まさに「ドメスティック(国内)」の方向だけを向いて、内向きに全精力を集中してきた。つまり「鎖国」していたのです。それは例えば「野球」に象徴されるのではないでしょうか。日本のプロ野球は、「日本の」と付けたように、日本国内だけで公式戦(つまり真剣勝負)を行なっていて、アメリカや台湾・韓国といった海外と親善以上の交流をして来なかった。「国内の試合がすべて」だったのです。そういった意味では、プロ野球も国内経済も「鎖国」をしてきたと言えるでしょう。一方サッカーも、国内のリーグでいくら頑張ったところで、いざ国際試合になったら、ワールドカップはおろかオリンピックの予選すら突破できない。そこで、「世界」を見据えて「Jリーグ」を発足しました。1993年のことでした。その蠕動(ぜんどう)は、数年前から(1980年代末から)起こっていたのですが。これは「鎖国」していたものを「開国」し、「文明開化」したと言えるでしょう。
ワールドカップで顔に国旗をペインティングしたり君が代を歌ったりする若者を見て、精神科医で評論家の香山リカさんは「プチ・ナショナリズム」と名づけましたが、私はそれを読んで「なんか、違う」と思っていました。以前書いたかもしれませんが。その点では佐藤さんと同じ意見です。
日本は戦前、ファシズム国家と結び「普通ではない国」だった、それを反省して、今度はまったく逆の方向の「普通ではない国」を目指して行った。この「振り子の極端な振れ方」という点で、日本は戦前となんら変わっていないのではないか?という疑問が頭に浮かびます。限りなく右へ右へと行くと左に行き着いてしまう、左へ左へと突き進むと右に着いてしまうというような。なぜ「中道」「中庸」で行けないのか?それは、自分が今どのくらいの位置にいるかを客観的に判断できないからではないか。少し軸がブレたら慌てまくって逆の方にハンドルを切ってしまうからではないでしょうか。



第二点目「中央対地方、都市対農村の図式の崩壊」。これも何のことはない、もともと「鎖国」して「国内」にしか目を向けなかったから生じていた「対立の構図」だったのですから、「日本対外国」という「外」に目を向けた関係が生じた以上、「内」に力を注ぐ余裕はなくなるのは当然です。薩英戦争を経験した薩摩が、「国内が一丸となって列強に当たらなくてはならない」と考えたのと同じことですね。
また、農村が「薄められた都会」となったのは、「日本の市町村の均質化」を目指したことによるのではないでしょうか。なぜ「均質化」を目指したか?それは「便利さ」を追求したからです。「便利さ」は、「均質」「等価」を前提に実現できる「スピード」によって、半分は達成されるからです。(もう半分は、「手軽さ=面倒くさくない=簡単=手間の省略」)



第三点の「モノ」から「縁」への転換。これは今のところそれほど実感はないのですが、佐藤さんがおっしゃるなら、そうなんでしょう。
「モノ」の豊かさからの脱却はそのとおりだと思います。つまり「欲しいモノがなくなってしまった」現代において、「需要=欲しいものとは何か?」を考えるところにその答えは出てくるのでしょう。



社会学者の佐藤さんは、このインタビューのテーマ「政治を問う」に答えて、



「今、政治に求められているのは“政治”をしないこと。裏の調整をせず、なるべく原理原則にそって基準を当てはめることだ」



と述べています。一読すると「政治に求められていることは政治をしないこと、とはどういうことだ??」と思いますが、あとの「政治」には“ ”が付いています。つまり、今の日本に求められている政治は、“従来の日本的な、国内向けの、裏の調整=根回しが基本の政治的な手法”ではなく、“欧米で生まれた『民主主義』という原理原則に忠実な政治”ということなのでしょう。佐藤さんがここで述べた3つの変化が、なぜ起きたのかを考えれば、当然の帰結と言えます。
佐藤さんはさらに、



「あいまいな基準の運用に国民は敏感になっている。(中略)変なさじ加減をすると、やる気がそがれ、不満が爆発する。」




と話しています。しかし、今一つ気になることは、そういった流れに沿う政治を展開した場合に「ポピュリズム」「大衆による衆愚政治」に陥りはしないか、あるいはそれを促進してしまわないかということです。え?もう陥っている?ンンン。「民主主義」は、完璧な選択肢ではなく、かなり欠陥を持った不完全な次善の(今のところ唯一の)選択肢であることを認識した上で(つまり多数意見ばかりを尊重するのではなく、少数意見の尊重も忘れずに)運用していく慎重さを、政治家に求めることも忘れてはならないのではないでしょうか。
そう言えば5,6年前に、自由党の小沢一郎さんが「普通の国」を盛んに唱えてらっしゃいましたね。小沢さんは現状をどう感じているのでしょうかね。



ところで、ここまで書いてきて今さらですが「普通の国」とは、一体何なのでしょうか?何が「普通」なのでしょうか。ここでいう「普通」はまさに、



「欧米の常識に沿った国」



のことでしょう。「グローバル・スタンダード」が「アメリカン・スタンダード」であったように。
そうすると、日本は必ずしも「欧米の普通の国」を目指す必要がないのではないか?という疑問も出てきます。「アジアの中での普通の国」を目指すという選択肢もあるのです。また、「日本は日本」という姿勢も、もちろん必要でしょう。
日本はどんな「普通の国」になりたいのか。その答えを考えなくてはなりますまい。


2003/1/5



(追記)



宮崎学『近代の奈落』(解放出版社、2002、11、20)という本を、新聞の書評で見て、本屋さんから取り寄せて読み始めました。この本、10章からなるのですが、その最終章が、
「序章としての終章」
とあったので、そちらから読み始めたところ、「あ!」と思う記述がありました。



「近代化というのは、等質化の運動である。経済的には商品化によって等質化していく。政治的には民主主義により等質化していく。そして、社会的には市民化によって等質化していく。しかし、どのような近代化であろうと、完全な等質化、純粋な等質化はできない。それは近代化の歪みのせいではない。近代化にとって宿命的なものである。」



上の文で私は「便利さは、均質と等価によってその半分は達成される」と書いたのですが、宮崎氏によると、実はその便利さを求めることこそが「近代化」であるということになるのではないでしょうか。そしてその近代化は完全には達成できないと宮崎氏は述べています。その、完全に達成しようとしてもできない、宿命的に取り残された部分こそが「近代の闇」=「近代の奈落」だということを、そこに差別問題の根源的なものがあると述べているのではないでしょうか・・・って、まだ数ページしか読んでいないので、間違っているかもしれませんが。
私は逆に、近代化を完全に進めてしまうことの弊害・危険性について述べたのですが、宮崎氏は近代化が完全に進まないことのジレンマについて述べている。これは立場の違いによるものなのでしょうか。



いずれにせよ、「等質化による近代化は、問題を含んでいる」という点では一致していることがわかって、よりこの本を読む気になりました。また読み終わったら感想を書きますね。



2003/1/7


◆ことばの話978「私立探偵」

ニュース本番直前、妙なことが気になりました。番組宣伝で放送していたYTVのドラマ「私立探偵濱マイク」についてです。
「私立探偵というが、公立探偵や国立探偵なんてものがあるのか?もしないなら、わざわざ私立をつけなくてもよいのではないか。」
そして、さらに、
「子どもの頃の鬼ごっこのような遊びで『ドロタン』とか『ケイドロ』とか呼ばれたものがあった。それぞれ『泥棒と探偵』『警察(官)と泥棒』の略だったのだが、私は『ドロタン』派。誰が泥棒で誰が探偵かを決める際に、『イロハ』を使い、『イロハニホヘトチリヌ盗人!ルヲワカヨタ探偵!』と決めていた。このように、昔は警察のことを探偵と呼んでいた時期があるのではないか」
ということでした。
そこでネットのBBS(掲示板)「ことば会議室」に、「私立探偵」について投書(?)したところ、田島照生さんという方からご教示いただきました。
それによると、「私立探偵」の元祖は、実在の人物では、1832年にパリで開業したフランソワ・ビドッグという男小説の人物ではオーギュスト・デュパンが最初の「名探偵」ではあったが、「私立探偵」ではなかったと。小林司・東山あかね『シャーロック・ホームズの推理博物館』(河出書房出版・2001)によると、「1877年にシャーロック・ホームズが世界で最初のコンサルタント探偵をロンドンで開業。」とあるそうです。ホームズあたりから「私立探偵」は広がったのかなあ。
インターネット検索だと



私立探偵2万9400件
探偵70万7000件



待てよ、「私立」探偵があるのなら「公立」探偵や「国立」探偵もあるのではないか?大学だって私立大学もあれば公立大学、国立大学があるではないか!と思って調べてみると・・・・そういう表記、あるんですねえ。



公立探偵15件
国立探偵48件



また、「日本私立探偵協会」というホームページも見つけました。そこに、



『明治時代、刑事のことを「探偵」と呼んでいた』



と書いてありました。ほら、やっぱり!だから、「お上の探偵」と区別する意味で「私立探偵」は出てきたのではないか?ということですね。
また別のホームページでは、
「アメリカには公立探偵がいるらしい。少なくとも公的資格が存在するそうな。これはおそらく開拓村の自治をしていた保安官制度の名残かもしれない。(中略)日本の探偵は全員私立。結城昌治の名言『公的探偵が存在しないのにどうして私立探偵が存在するのか』という所に全ては集約される。」
という記述が。同じようなことを考える人はいるんですねぇ、やっぱり。
そのほか、作家の辻真先の作品に、
『国立探偵シリーズ』
というのがあるらしい。これは「フィクション」でしょう。「国立探偵」でみると、舞阪洸という人の作品に、
『国立探偵・江戸川乱子』
というのがあるらしい。パロディかな。集英社スーパーファンタジー文庫というところから出ているようです。やっぱり「国立探偵」はフィクションしかなさそうです。
とりあえず、こんな所で。私立探偵ほどは調査が行き届かないようです、私は。



2002/12/27


◆ことばの話977「アカペラ」

クリスマスを翌日に控えた12月24日、関西国際空港の航空会社地上勤務の職員(女性)達が、「歌のプレゼント」をしたというニュース。この中で、
「アカペラの演奏を披露しました。」
というフレーズが出てきました。私は合唱をやっているので、「アカペラ」の意味は分りますが、一般にはどのくらい「アカペラ」という言葉の意味は浸透しているのでしょうか?
周囲で聞いてみたところ、「アカペラ」という言葉を、
「聞いたことはあるが、正確には意味は分らない」
という人が多かったのです。中には、
「何かの略称ですよね?」
という人まで現われる始末。「アカ・ペラ」だと思っているようです。確かに「アカハラ=アカデミック・ハラスメント」(学校内でのセクハラ)という似たような略称の言葉はありましたが。「アカペラ」は略称ではありませんよ!
読売新聞校閲部が出した『新聞カタカナ語辞典』(中公新書クラレ2002・5・25)によると「アカペラ」は、



「イタリア語のa cappella 無伴奏合唱。『教会風に』を意味する言葉が語源。楽器などの伴奏なしで純粋に声だけで歌うこと。」



です。伴奏なしの合唱です。「カペラ」は英語だと「チャペル」です。教会での歌の演奏はたいてい伴奏なしですからね。たまにパイプオルガンの伴奏があるものもありますが。
だから、もしナカグロを打つとしたら「アカ・ペラ」ではなく、「ア・カペラ」です。
このところ「グレゴリオ聖歌」が流行ったり、ゴスペルが流行したり、ゴスペラーズの人気が出たり、「アカペラ」はブームのようですが、意外と雰囲気だけしか理解していない言葉の一つではないでしょうか。
ちょうど、今朝(12月26日)の朝刊各紙に、国立国語研究所の外来語委員会が検討した「外来語の言い換え例」の中間報告として63語が紹介されていましたが、その中には「アカペラ」は含まれていませんでした。
なお、お昼のニュースでは、解説なしの「アカペラの演奏」と読んだ原稿、夕方のニュースでは、
「伴奏のないコーラス・アカペラの演奏」
として放送しました。



2002/12/26


◆ことばの話976「W」

数年前に「今年のはやりはi」だとか「J」だとかいうことを書きましたが(1999年12月に書いていました。ことばの話35「iあるH」)今年流行ったアルファベットと言うと、
「W」ではないでしょうか。
まず6月のワールドカップ。表記は「W杯」「Wカップ」というのが目立ちました。日本新語・流行語大賞でも「タマちゃん」と並んで「Wカップ(中津江村)」が選ばれています。これは「W」ですね。
そして10月から12月にかけては、小柴さんと田中さんのノーベル賞の
「W(ダブル)受賞」
これも「W」です。そして、六大学野球と大学ラグビーでは早稲田大学が優勝を飾っています。もちろん、大学のイニシャルは、
「W」
ですね。今年の年頭は田中真紀子さん、(続いては鈴木宗夫さんでしたが)辻元清美さんと今年は・・・というより今年も、話題の中心は「女性」でした。ということで「女性=WOMAN」の頭文字を取って、やはり「W」。これはこじつけか。
いずれにせよ、なにかアルファベットのイニシャルが、その年の出来事を象徴することって、あるんですね。「ことばの話35」では、PSとして、
「2002年は『H』誕生50周年だそうだ。2000年版『現代用語の基礎知識』にそう書いてありました。けど2002年までに『H』の年は来そうな気がする。」
と書いたのですが、すくなくとも2002年は「H」の年ではなかったようですね。
あ、今年のプロ野球は巨人が優勝したから、ジャイアンツファンにとっては「Gの年」なのかもしれません。「T」の年はいつ来るのかしら。



2002/12/26