◆ことばの話915「こっくりと」

「君のことが好きなんだ。つきあってくれないか。」
彼女は恥ずかしそうにうつむくと、こっくりとうなずいた



・・・・
なあーんてね。恥ずかしい文章を書いてしまいました。なんで恥ずかしいんだろ?なんでかわからないけど、ものすごく恥ずかしいですう。
それはさておき、この文章の中で使っている「こっくりと」は、「うなずく様子」を表す言葉として使いますよね。また、
「連日の寝不足がたたったのだろうか、彼はこっくりこっくりと、船をこいでいた。」
というような、「居眠りの様子」を表すのにも使いますね。でも最近、



「わたは、そーっと、つぶさないで煮はじめる。自然にはじけるのを待とう。生臭くなく
こっくりと でき上がるよ。」(「オレンジページ」2002・9・17号26ページ、いかのわた煮)



のように「じっくりと染み込んだ」と「こくがある」を合わせたような意味での「こっくりと」が使われているようなのです。
辞書を引いてみても『新明解』『新潮現代』には居眠りとうなずく様子の意味しか載っていません。



『広辞苑』には、「こっくり」を引くと、



(1)うなずくさま、 (2)頭を前に垂れたり挙げたりを繰り返して居眠りするさま。また、その居眠り。
に続いて、
(3)色などが、じみに落ち着いて上品なさま。食物にうまみがあって味わいが深いさま。
と載っていました。また4つめの意味では、
(4)急に状態の変ずるさま。ぽっくり。
というのもありました。
日経新聞で土曜日に連載されているコラム「食語のひととき」で、調理学研究者の早川文代さんは、11月9日の紙面で、この「こっくり」を取り上げています。



「この季節になると、料理の表現で『こっくりと煮込んだ』というのを目にする。なんとなくおいしそうな響きがあるが、『こっくり』とは何を表すのか。日常的に使う言葉ではないが、見たり聞いたりすると語感がよい。例えば作家の北畠八穂氏は『クルミモチのコックリした味』、料理人の小山裕久氏は『濃い口しょうゆでこっくり炊いた煮物』と使っている。もともとは深みのある上品な色合いのことを言った。江戸時代には着物の色や柄に上品な落ち着きのある様子を『こっくり仕立て』と呼んだ。また、明治時代に人気を博した小栗風葉の小説『青春』では『葡萄(ぶどう)色のこっくりとした羽織』と使われている。やがて、こっくりは味の深みも表すようになった。しょうゆやみりんであめ色に煮付けた物をこっくりと表現するうちに、味にも広がったのだろう。(後略)」



とちょっと長い引用になりましたが、書いてあります。もとは食べ物には使われなかったのですね。使われ方にも、「こっくりと」した歴史がありますね。
『日本国語大辞典』では、「うなずいたり居眠り」の「こっくり」と「色や味わいを示す「こっくり」は別の見出しにしていて、「うなずく」方は(「と」をともなって用いることもある)」というふうに書いてあります。
もう一つの「こっくり」は、



「色合いや味などが、濃かったり深みがあったりするさまを表す語。」



と書いてあります。例文は先ほどの小栗風葉のも載っていますがそれ以外に
三遊亭円朝の『真景累ケ淵』(1869頃)から「襟には濃(コッ)くり白粉を附け」、里見とんの『多情仏心』(1922〜23)から「鼠地に、ともの薄色であらい縞と、その間にこっくりとした紅のとおった英国製のセルに」、室生犀星の『山吹』(1944)から「明るい片頬の照りは、こっくりした白さに溶けて、紀介の眼をしっかりと深くも、とらへた」という用例が載っていました。



ちなみに、Googleの検索では、



「こっくりと」= 7520件
「こっくり」= 2万3400件




で、「こっくり」のほうには「こっくりさん」なども含まれていました。
「こっくりと」「味」という2つのキーワードで検索したら、1260件でした。



2002/11/15

(追記)

2004年9月5日の日経新聞掲載の川上弘美さんのコラム「此処彼処(ここかしこ)」に「こっくりと」が出てきました。
「皮つき豚の煮込み。トマト味の米料理。パンの実のスープ。マダガスカルふうの、質素だがこっくりとした献立だった。」
ふーん、まだ食べたことはないけど、なんとなく温かみのある料理のようですね、マダガスカル料理というのは。

2004/09/16

(追記2)

2005年6月18日の朝日新聞夕刊の記事。画家のマツモトヨーコさんが書いたコラムの中の色の表現の中に、「こっくり」が出てきました。
「こっくりとした茶」
というものです。マツモトさんは、気になる色があると忘れないようにメモしておくのだそうです。その時に「ロバ色」「桜文鳥のおなかの色」「黒地にいなかピンク」と並んで「こっくりした茶」が出てきました。
「本人でなければどんな色かわからないが、これらのメモが、作品に採用されるのを待っているのだ」
そうです。

2005/07/27


◆ことばの話914「自己中心的な犯行」

裁判のニュースを読んでいるとよく出てくる、裁判長の判決文面の文言に、



「自己中心的な犯行」



というのがあります。しかし、よく考えてみると、



「嘱託殺人など、ごくまれな例を除いて、『自己中心的でない犯罪』というのはあるのだろうか?」



という素朴な疑問が沸き上がります。たいていの犯行は、自分のことしか考えない「自己中心的な犯行」です。嘱託殺人以外では、「心神喪失」もそれに当たるかもしれませんが。「自己中心的な犯行」は、裁判関係での「常套句」と言って良いでしょう。
もちろん、判決文で「自己中心的な犯行」という言葉を使うなと言うことではありません。それをニュースで伝える場合に、本当にその一言が必要なのかどうかを、記者やアナウンサーの側がよく吟味して考える必要があるのではないか、ということです。
別に、何も間違ってないんですけどねぇ。
これは、自己中心的な言い分でしょうか?



2002/11/14


◆ことばの話913「ATM機」

ATMってご存知ですよね?日本語訳は「現金自動預け払い機」。銀行や郵便局、コンビニなどにありますね。これをニュースで読む時には、われわれは、



「ATM、現金自動預け払い機」



と読みます。2回目からは「ATM」だけです。しかし最近これを、
「ATM機」
と言うのを耳にする、と言う人がいたので調べてみました。Googleによると、



ATM= 485万0000件
ATM機= 8万7500件




圧倒的に「ATM」の方が多いわけですが、「ATM機」も8万件もあります。
でも「ATM」は「Automated Teller Machine」の略ですから、既にその略語の中に「Machine」=「機械」という意味を含んでいます。よって二重表現になっているのではないか。
なぜ、そうなったのかを考えると、ATMの登場前に、



「CD機」


というのがありました。今もあると思いますが。こちらは「現金引出し機」で、預ける機能は付いていないもの。「Cash Dispenser」の略です。ただ、「CD」というアルファベットの略号は、ほかにもいっぱいありますので、ただ「CD」だとわかりにくい。そこで「機」を付けて「CD機」としたのではないか。その流れの中で登場した「ATM」なので、本来「機」は要らないのに「ATM機」と「機」を付けちゃったのではないか、と考えられます。
「○○機」という形の中に「○○」にアルファベットを入れるパターンが出来ていたのではないかと思います。Googleでは



CD= 982万件
CD機= 68万件




これは「CD」というアルファベットの中には「キャッシュ・ディスペンサー」以外の「CD」も含まれているために膨大な数になっていると考えられますね。
ちなみに、読売テレビ報道局のコンピューターに入っているニュース原稿で検索したところ、



ATM・・・・・182件
ATM機・・・・・0件




でした。



2002/11/10


◆ことばの話912「オウムから見える日本」

『週刊朝日』誌上で、2002年9月20日号から10月18日号まで5回にわたって掲載された、映画監督の森達也さんの「オウムから見える日本」という作品は、オウム真理教(現・アレフ)についてのドキュメンタリー映画「A2」を撮り終えた森監督が、映画作製で見てきたオウムと、その周辺の人たちについて書いたものです。同僚のHアナが「おもしろいですよ。」と教えてくれたので読み出しましたが、確かにおもしろい。
その中で気になったのは、私と同じく森さんも現在の日本人が陥っている「二つに分ける方法」に疑問を抱いているという点です。たとえば、第2回「こだわりの理由」で「A2」の上映を主催する側に河野義行さんはじめ反オウムと位置づけられてきた人たちも加わっていることから、メディアはこの映画に関してあまり報道しない事を指して、



「善悪や正邪の二元論に単純に収斂できない事象であることに気づき、この曖昧さを表現できる語彙がない(と思い込んでいる)メディアとしては、ならば没にしてしまえということなのだろう。」



と言っていたり、



「(オウム信者に)踏み絵を強制する住民に、荒木浩は『私は誰の写真も踏めません』と回答した。二極化を好む今の日本社会の傾向に、世の中には対立要素だけではない考え方もあることを示す最上の回答だと僕は思う。」



「人の営みや現象には多面性がある。その多面性への視点を(皮肉なことにメディアが爛熟し情報化社会が進展するに従い)、近年僕らは失い始めている。」




と述べています。そして、第4回『メディアの本質』では、



「近年、二極化にスライドする民意に従属するように、メディアはこのグレーゾーンを急速に喪失しつづけてきた。その帰結として、あらゆる事象は『善と悪』や『正義と邪悪』などの対立概念に還元されてデジタルな情報へと加工され、パッケージされた商品として消費される。そこには葛藤や煩悶など欠片(かけら)もない。オウムの現場でよくみかけたのは、邪悪なオウムに対峙する正義と真実を、自分が体言していると信じ込んでいる記者やディレクターたちだ。もはや後ろめたさなど気配すらない。」



そして、第5回『憎悪の正体』では、



「恐れによって喚起された他者への憎悪はその帰結として、他者の営みへの想像力を衰弱させる。そこに現われるのは、正と邪、善と悪、真実と虚偽などの対立概念に単純化された二元論だ。」



そして森氏は、二元論に単純化してしまうことで、われわれは対象に対する想像力を停止してしまうと述べています。



「人は皆それぞれの営みを生きている。親がいて子供がいて伴侶がいて、泣いたり怒ったり笑ったりしながら日々の生活を営み、愛したり裏切ったり絶望したりしながら少しずつ老いてゆく。こうしてわざわざ文字にすることがバカバカしくなるほどに、当たり前のことなのだ。でもその想像力を、共同体への帰属意識と引き換えに僕らはいつのまにか停止させてしまう。オウム信者は皆、洗脳されて感情を失った凶暴な殺人集団なのだと無自覚に思い込むことで、この忌まわしい事件を処理しようとしている。」
「組織共同体の無自覚な暴走がダイナミズムとなっている。中世ヨーロッパの魔女狩りやクメール・ルージュによる大量虐殺、ナチスドイツのホロコーストも構造は同様だ。」



「臨界点まで達してしまう最大のダイナミズムはいつの世も、共同体という『顔のない怪物』の無自覚な暴走なのだ。」



そして森氏は、次のように文章を結んでいます。



「被害者や遺族の苦痛や慟哭を共有し、テロや戦争というメカニズムを憎む気持ちは大切だ。しかしもしも今の社会が、悲嘆や苦しみではなく他者への憎悪を共有しているとしたら、この輪廻は永遠に続く。」



二元論、単純化の末にあるものは・・・。
また、考える材料が増えました。



2002/11/14


◆ことばの話911「水野真紀の"かも・みたいな"」

ちょっと古いネタになってしまいましたが・・・。
週刊文春、愛読しています。言葉の観点から見ると、阿川佐和子さんの「この人に会いたい」というインタビュー記事が参考になります。もちろん、インタビューの内容を文字化するにあたっては、まったくしゃべった通りかどうかは分らないけれど、おそらくかなり忠実に再現しているのではないかと思われます。それだけにインタビューされる人にとっては、自分のしゃべり方の癖が文字に固定されて出てきてかなり恥ずかしいのではないか、という気がします。以前、小泉今日子さんがゲストだった時、そのしゃべり方の幼さに驚きました。もう30歳になっているであろうに、これではアイドル時代と変わらないではないか、と。
今回(10月24日号)のゲストは女優の水野真紀さん。「東宝シンデレラ特別賞にして『きれいなお姉さん』」と紹介されています。お嬢様のイメージも強い彼女ですが、このインタビュー内容で見ると、相当"今ふう"のしゃべり方をしています。私としては、ちょっとがっかり、みたいな。彼女は1970年(昭和45年)生まれの当年とって32歳。この年代の女性のしゃべり方の典型という気がしたので、書き抜いてみました。



<・・・かも>
「この役は他の人にやられたら悔しいかもって思ったんです。」
「二人っていうのも会話に困るかもって。」
「一人暮らしして自立すれば、ちょっと私は変わるかもと。」
「気が付かないのかも。」



<じゃないですか>
「一度はバイトしてみたいと思うじゃないですか。
「『私をスキーに連れてって』という映画があったじゃないですか。
「大学生になったら、さすがに親もOKじゃないですか。
「でも仕事も楽しいじゃないですか。



<・・・みたいな>
「ワクワクみたいな。」
「苗場に恋を見つけに行くぞぉ!みたいなノリで・・・」
「親のベンツで学校へきちゃうみたいな世界を見てしまって。」
「ああー、そう来たかい、みたいな。」
「タイミング完全に逃した、みたいなところもあるかもしれない。」



<・・・って感じ>
「一枚撮ったら、ア、終わっちゃったっていう感じで。」
「エエッ!?って感じになって・・・」



<擬態語・擬音語>
ズーンと落ち込んで。」
ズドーンと落ち込んだ後に・・・」
「一人でバクバク食べてました。」
「私は風邪最悪の状態でもうゲホゲホ



<女がすたる>
「『そんなことやったら女がすたる!』という意地はあるんですよ。」
「こんなとこで声かけたら女がすたると思って。」



<とか>
「クッキーとか焼いて」
「チェックしに行ったりとかもして。」
「結局、母と姉が片付け隊として今も家にきたりとかするんですけど・・・」
「うちのお姉ちゃんがお嫁にいけなくなったらどうしようとか思っちゃったんですよ。」



<その他>
「そのとき初めてチューをするってことを意識しましたね。」
「やっぱりものにならなかったという・・・。
「弟とコードつなげて見るんですよ。」
「自分の夢の締め切りはつくってましたね。というか、つねに逃げ道女なんだと思うんですけど。」
「もうちょっと日本料理を知るのもいいかなと。」



いやあ、こうやって分類してみて驚いた。最近よく言われる「若者の乱れた言葉使い」のオンパレードですな。え?「オンパレード」は死語だって?そうですか。
しかし、しかし。これは困るよ、彼女。きっと、もっと年を取ってもこのしゃべり方は直らないよ。
年をとってこのしゃべり方だと恥ずかしいだろうなあ。
あ、でもその頃には周りのお年寄りは、みんなこのようなしゃべり方になってるかも。あ、うつっちまったい!



2002/11/12