◆ことばの話810「那覇発」

台風16号の猛威はスゴイです。那覇で最大瞬間風速が57,9メートル!
街灯の鉄の支柱も、ひん曲がっていました。当然のことながら、関西と沖縄を結ぶ飛行機も欠航が相次いでいました。
その情報を伝える9月5日のお昼のNHKニュースを聞いていたところ、
「那覇発」
という言葉がどうも耳につきます。この男性アナウンサーは、「那覇発」を
「ナハハツ(LHHL)」(Lは低く、Hは高く読む)
とコンパウンドして読んでいたのです。私が読むなら。
「ナハ・ハツ(HL・HL)」
と二つに区切って読むところです。
コンパウンドすると何がおかしいかと言うと、「ハ」の音が同じ高さで2回続くのです。
そうすると、どうしても私の耳にはあの、せんだみつおの笑い声のように聞こえてしょうがないのです。



「ナハハツ(LHHL)」



ナハ、ナハ、ナハハ。



2002/9/5


◆ことばの話809「無冠返上」

8月30日の各紙朝刊に、将棋の谷川浩司さんが、羽生善治王位を4勝1敗で破って、11期ぶりに王位を奪還したというニュースが載っていました。
その記事の中に、朝日、読売、産経は、
「無冠を返上した」
という表現が出て来るのですが、「無冠」は「返上」できるものでしょうか?無い冠をどうやって返上するのか?という話です。
まず考えられるのは、
「無冠(の汚名を)返上した」
という文章の「の汚名を」が省略されているという形。
次に考えられるのは、「無冠」の「無」も「無いという状態がある」と考えて「0は、“無し”ではない」という哲学的な理屈です。あくまで「理屈」ですが。
まあ、普通に言えば「王位を奪還した」ですね。
ただ、「無い冠」ということは、その人物は「実績や実力から言って、当然、『冠』を持っていてしかるべき人」で、そういう人でなければ「無冠」という表現は使えないでしょう。ポッと出の、あるいは期待の超大物でも「新人」がタイトルを初めて取っても、「無冠を返上」とは使えないでしょうし、これまでタイトルをとっていないベテランの清原選手が「打点王」でも取れば、当然「無冠(の帝王)を返上」と書かれることでしょう。
その意味では谷川新王位は、十分に「無冠」という表現に値する実績と実力をお持ちだと思います。
そして、もう一つ、なぜ「無い冠」に違和感を覚えたか。(実は、私は最初、まったく違和感なかったのですが、他の人の指摘で、はあ、そう言えばそうだなと思ったのでした。)
これはこの「無冠」という表現が「中国語的な考え方によるから」ではないでしょうか。
中国語は文法的に、日本語よりも英語によく似ていると言われます。それを思い出したのは、子供の英語教室でもらった英語の歌のテープを聞いていた時のことです。
その曲は、最初10本の緑色のビンが壁にぶら下がっていたが、1本が落ちて、残りは9本になった、9本がまた1本落ちて8本になった・・・・というふうに続いて、最後には1本もなくなってしまうという歌です。この歌の最後は、
No green bottle is hanging on the wall
となるのです。・・・そうですね。英語は「ない」にあたる「No」が最初に来るんですね。中国語(漢字)の構造でも「無」が最初に来ます。日本語では、「ない」という否定を表す言葉は文末に来ます。「無冠」という考え方は、もともとの日本語(やまと言葉)的ではないのかもしれません。とは言うものの、もう十分日本語になってはいるのですけれども。しかし、放送の言葉では、耳から聞く言葉としては、漢語はわかりづらいものも多いので、あまり使わない傾向にあります。使わないから、人も知らなくなり、もっと使われなくなっていく・・・その繰り返しが行なわれているような気がします。
この記事の中には
「失冠」
という言葉も出てきて、これもあまり目にも耳にもしない言葉だなあと思いました。
ところで、「王位」の冠は
「王冠」
ですかね?「王冠」もあまり耳にしないなあ。子供の頃は集めたりしたんだけれどなあ。



2002/8/31


(追記)



上記で、「他の人の指摘」というのは、岡島昭浩さんのインターネットの掲示板「ことば会議室」でのPOP3さんのご指摘です。



2002/9/11


◆ことばの話808「ノーベル賞の発想」

先日、NHK衛星第一テレビを見ていたら、面白そうな番組をやっていたので見入ってしまいました。「ウィークエンド・スペシャル:ノーベル賞の発想」というドキュメンタリーでした。日本のこれまでにノーベル賞受賞者はなぜか京都大学出身者が多いという事実から、なぜ京都大学からノーベル賞受賞者が出るのか?というあたりを探ろうと、現在、京都で活躍していて、ノーベル賞を受賞してもおかしくないような優れた方々を幾人か紹介していたのです。
その番組の中では、良い発想を得るための条件として次の4つをあげていました。
1夜明け
2メモ
3散歩
4京都

なぜか理由は分かりませんが、夜明けには良いアイデアが出るそうです。そしてそういった素晴らしいアイデアはすぐにフーッと消えてしまうために、枕元にはメモとペンを置いておくことが必要なんだそうです。
これに近いことは、実は私も実践しています。枕元には置いていないんですが、よく電車の中でや、歩いている時に、良い思い付きやメモしておきたいことが浮かんだら、自分が持っている本のカバーや、その辺にあるチラシのウラや隅に書き付けるようにしています。胸ポケットには常にボールペンを入れていますし。そして万が一、どちらもない場合には、ケータイを使います。ケータイに「録音」という機能がついているので、そこにメモしておきたい事を吹き込みます。録音日時が記録されるので、とても便利です。でもこれは録音時間の容量がそれほど大きくないので、すぐにいっぱいになってします。そこで最近は(親指族の端くれとして)、ケータイから会社の自分のパソコンに、思い付いた事をメールで送るようにしています。そうすれば、次に会社に行った時に必ず目にしますから。
また、番組で取材されていた京都大学の苧阪(おさか)教授によると、
「散歩をしている時は、だらだらした上り坂が、発想には良い。あまりキツイ坂だと息が切れて、坂を登ることに神経が集中してしまうけれど、ゆるい坂だと適度に運動にもなって、その運動が脳を活性化するのではないだろうか。」
と。また、京都は山に囲まれた盆地なので、そういった坂には、事欠かないんだそうです。
また、同じく京都大学の大学院の植村栄教授は、
「次にああしよう、こうしようということは、実験器具を洗っている時に浮かぶ事がよくある。」
と話してらっしゃいました。
これは私の体験でも、自転車をこいでいる時とかちょっとした散歩の時、そして皿洗いのような単純作業をしている時に、何か面白い発想が出る事があるので、ノーベル賞級の人たちとはレベルが違うけれども、我々にとってもそうなのかもしれないな、という気がしました。
こういったスゴイ人たちは、24時間ずーっと研究室(=仕事場)で仕事に没頭しているわけではなく何か息抜きをしているのですが、その息抜きの間も、仕事に関連したアイデアが何かないか?ということを、さりげなくかつ貪欲に探す姿勢を、みんな共通して持っているように感じられました。
といった事を、家で寝そべりながら、新聞のチラシの裏にメモしていた私です。
なかなか勉強になった番組でした。



2002/8/30


◆ことばの話807「価値と価値カン」

時々、巷の新しい言葉の情報を知らせてくれるNアナウンサーが、またニコニコしながら近づいてキマシタ。
「道浦さん、最近、“カチカン”という言葉を“価値”の意味で間違って使うのを、よく耳にするんですけど。」
「?どういうこと?」
よくわからなかったので、聞き返すと、
「たとえば、野球の解説なんかで“今のは価値ある一発でしたね”と言うべきところを“今のはカチカンある一発でしたね”というふうに使ってるんです。昨日、野球解説の中畑清さんが使ってるのを耳にしました。」
そんなヤツァ、おらん、と思ったのですが、中畑さんなら、あるかも。Nアナが続けます。
「しかも、そういう使い方をする人は、“カチカン”を漢字で書かせると、“価値観”ではなく“価値感”って書くと思うんですよ。」
と鼻の穴をふくらませていました。
それを聞いて、ちょっと「ああそうか」と思いました。というのは、本来の「価値観」は「価値を感じる揺らぎない体系」を指すと思うのですが、(「新明解国語辞典」によると、
「そのものにどういう価値を(意義)を認めるかについての、それぞれの人の考え方」とありますが。)ここで中畑さんが使っている、
「価値感」
というのは、
「充足感」とか「満足感」「お得感」と同じ「○○感」という形の「○○」の中に「価値」という言葉が入ったもの
なのです。だから、
「価値がある感」「価値を感じる感」「価値があると思う感」
とでも言うべきものの省略形で、従来の「価値観」という言葉とはまったく異なるものといえるでしょう。「お得感」の延長線上にある「価値感」は、確かに今後広まるかも知れません。Nアナウンサーに今後もウオッチするように命じました。



2002/8/30


(追記)



9月5日、午後2時半過ぎのNNN24で愛媛県の南海放送からのニュースに出てきた農業のおじさんが、こんな言葉を使っていました。
「愛着感が湧いてくる」
これは本来「愛着が湧いてくる」というべき処ですが、「愛着」を弱める形で「感」をつけているようです。これはNアナウンサーの言う「価値感」と同一線上のものではないでしょうか。



2002/9/5



(追記)



同様の「カン違い」の例を思い出しました。
「土地カン」
です。これは本来「土地鑑」と書いて、その土地に以前住んでいたり、その土地で勤めていたりして
「その土地の地理に詳しい」
ことを言うのに、そうではなくて、
「土地についてカンが働くので、初めて行ったところでも迷わずに、地図片手に目的地に簡単にたどり着けるといった能力」
のことをさすことがあるようです。確かこれは早稲田の飯間さんから、以前耳にした話だったと思います。



2002/10/1


◆ことばの話806「ゴム六」

私はゴルフはしないのですが、小学生の頃から父に連れられて打ちっぱなしやパターゴルフ場などには行っていたため、まったくゴルフが分からないわけではありません。「握る」とか「チョコレート」とか、そういうことは、よく分かりません。
さてそんな私にも興味が湧くゴルフに関するコラムが、日経新聞夕刊「あすへの話題」に載っていました。(2002・8・26付)前・東宮大夫の古川清さんが書いてらっしゃる「ローカル・ルール」というコラム。古川さんは、雅子様ご懐妊の時に発表をした人。東宮大夫になる前は、きっと外交官か何かでいろんな国を回られたのではないでしょうか。それでいろんな国のゴルフにおける「ローカル・ルール」に詳しいのでは?夏坂健著「ゴルフを以って人を観ん」(日経ビジネス人文庫2001・8)にも「世界のラフを渡り歩いて」という項で紹介されています。(ラフです。裸婦ではありません。)
たとえば、アイルランドのカラーという町のゴルフ場は、陸軍駐屯地付属のコースで、ひつじがたくさん放し飼いになっていたそうです。(執事ではありません、羊です。)その羊、バンカーに寝そべるのはまだいいのですが、到るところで“落とし物”を放置していく。そのため、ボールが“落とし物”に直撃した場合は、罰なしできれいに拭いてリプレースできたということです。
ロイヤル・ダブリンGCでは野ウサギの巣穴があちこちにあって、その中にボールが入った場合は、リプレース可能。そして韓国では、雪が積っていても開いているコースがあり、フェアウエイでもティーアップが出来るというローカル・ルールが。
サウジアラビアの、とあるコースではフェアウエイに赤いペンキで模様が描いてあり、ボールがその中に止まると、水などないのに池に入った事になったそうです。
これなんか子供の頃、野球のバットとボールを使って道でやってた「グランド・ゴルフ」と同じだ。
そして古川さんが「最高傑作」というのは、名古屋の「ゴム六」というローカル・ルール。林の中にボールを打ち込んでも
「今日はゴム六ですよねー」
「そうですよー」

となると、6インチ・ルールはゴムのように伸びてフェアウエイのいいところまでボールを持っていけるんだそうです。6インチルールというのは、よく分からないんですが、不可抗力でクラブを振れないような場所にボールが止まった時に、罰なしで6インチ(約15セン)だけボールを動かしてもよい、というルールの事だと思います。それがゴムのように、いくらでも伸びるので、「ゴム六」。聞いた事ないなあ。むかし「大工と鬼六」というお話を読んだのは覚えていますが。
古川さんは、このゴム六について、
「『ゴルフ道に反する』と怒るなかれ。老人たちの仲良し同好会で生まれたものらしく、このローカル・ルールのおかげで、何人もの方が心臓発作を回避できたに違いないのだから。」とこのコラムを結んでらっしゃいます。しかし、やっぱりこれは相当「ズルイ」ルール。もし同じような事をゲートボールでやったら、血で血を争う老人による抗争が起きるに違いありません。それで「心臓発作が回避できた」と言うのですが、そんなに心臓に悪いスポーツなら、やらなければ良いのです・・・・・うそです。それでも「ゴルフを」やりたいという人もたくさんいらっしゃるでしょうからね。
なかなかユニークなローカル・ルールだと思います、「ゴム六」。臨機応変の精神がここには生かされているのではないでしょうか。そのぐらいおおらかに楽しみたいものですね。



2002/8/30

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