◆ことばの話695「父子鷹」

先日の用語懇談会の席でのこと。あるスポーツ紙の委員の方から、こんな質問が出ました。

「最近、"父子鷹(おやこだか)"を"親子鷹"と書くようになっていると聞いたのですが、これはどうなんでしょうか?しかたがないんでしょうか?」

「おやこ鷹」というのは、「おやこ揃って有能」ということを表していると思います。「同じ分野で有能」という場合もありますし、「イチロー父子」や少し古くは「原辰徳(現・巨人監督)親子」など、「親子がコーチと教え子」という関係にも使われます。どちらかが有能でない場合には使われません。

そのうち、「父子鷹」は、勝海舟父子を描いた子母沢寛(しもざわ・かん)の作品のタイトルとして有名(だと思う)です。しかし、最近は「おやこ」と言っても、必ずしも「父と子」とは限らない。「母と子」「母と娘」「母と息子」「父と娘」というケースも、表現として考えられます。

そこで「父子鷹」のように「父子」と書いて「おやこ」と読ませるのではなく、普通に「おやこ」と読める「親子鷹」と表記するようになったのではないでしょうか。
「親子鷹」と書くと、読めますよ、もちろん。でもなんとなく頭の中に浮かんでくるイメージは、

「親子丼」

なんですよねぇ。
Googleで例によって検索してみました。

父子鷹 780件
親子鷹 909件
母子鷹 14件
母娘鷹 6件
おやこ鷹 25件
おや子鷹 0件


ちょっと読み方は違いますが、意味の上では似たような感じの、このことばも調べました。

二人鷹64件
ふたり鷹 1040件


といった結果でした。「親子鷹」はいまや一番よく使われているようです。しかし伝統の力(?)「父子鷹」も頑張っています。いままさに過渡期なのではないでしょうか。
「日本国語大辞典・第二版」(小学館)には、「親子鷹」「父子鷹」ともに見出しとしては載っていませんでした。
「読み」はそのままで「文字(漢字)」が変わって行く、それも社会の情勢に合わせて
・・・という言葉もあるのですね。おそらく今後は「親子鷹」の方が主流になっていくのではないでしょうか。

2002/5/23
(追記)

この疑問を呈されたのは、スポーツ報知の穂鷹さんでした。ご自分の名字に「鷹」という字があったので、特に気になったのではないでしょうか?穂鷹さんは昨年、定年退職されましたが、お元気でしょうか。
年が明けて、今朝(1月5日)の読売新聞朝刊、スポーツ面に
「親子鷹」
の文字を見つけました。「ゴルフ親子鷹」として紹介されていたのは、沖縄出身の宮里優作(22)。1月16日アメリカ・ハワイ州でのソニーオープンでプロ初舞台を踏むそうです。父は同じくプロ・ゴルファーの宮里優(56)。優作は2000年から日本学生3連覇、一昨年は日本アマを制し、招待参加のVISA太平洋マスターズでも、プロのその年の賞金王・伊沢利光と優勝を争って惜しくも2位になったという“スーパー・アマ”です。既に優作の兄・聖志(25)もプロデビューしていて、昨年は全英オープンにも出場しているそうです。ゴルフも新しい時代に変わりつつあるのですね。

2003/1/5

(追記2)

2003年5月30日の朝日新聞・朝刊に、サッカーの欧州チャンピオンズリーグ決勝で、ACミランがユベントスを0対0からPKで3−2と破って、9シーズンぶり6度目の優勝を飾ったという記事が載っていました。そしてミランのキャプテンであるパオロ・マルディーニ(34)は、父のチェザーレ・マルディーニも40年前の1963年にミランのャプテンとして欧州王者の栄冠を手にしていることに触れています。見出しは、

「欧州王者は親子ダカ」

サブタイトルは「ミラン主将・マルディーニ 父は40年前」「堅守の遺伝子3代制すか」と早くも未来を見据えています。
この見出しは「父子」と使ってもよいのに「親子」を、また「鷹」という漢字を避けて「ダカ」とカタカナを使っています。これも「交ぜ書き」の一種でしょうね。
マルディーニの2人の息子たち=3代目が、もし欧州王者になった時には、日本の新聞はどんな表記で「オヤコダカ」を記すのでしょうか。

2003/5/30
(追記3)

7月8日の読売新聞夕刊に載っていた、新聞小説・・・の形をとった、「金鳥」の「新・水性キンチョール」の広告のタイトルが、
「金鳥小説・父子水」
「父子水」には「おやこみず」とルビが振ってありました。出演は岸部一徳さんと大滝秀治さん。テレビコマーシャルも人気ですが、ホームページ上でも展開されているこのCM小説、笑えます。

2003/5/30

(追記4)

「追記1」で書いた「父子鷹」の宮里選手親子ですが・・・・ご存知のように、その後、妹の宮里藍選手の方が大メジャーになってしまって・・・。ということは、これは、
「父娘鷹」
でしょうかね。ま、と言うよりも、
「プロゴルファー一家」
なのではないでしょうか?GOOGLE検索では(3月11日)、
「父娘鷹」=13万3000件
多いですね!女性の活躍がそれだけ多いということ?で、よく見ると、レスリングの
「アニマル浜口・京子親子」
が「父娘鷹」で出てきていますよ。
「父娘鷹、浜口」=1210件
「父娘鷹、宮里」= 706件

藍ちゃんの方は、現在はお父さんの印象が薄いから、ちょっと少ないのでしょうかね。浜口さんのところは、お父さんの印象、強過ぎますが・・・。ついでに、
「父娘鷹、東尾」=1650件
でした。。

2005/3/11

(追記5)

2006年2月3日の読売新聞スポーツ欄に、今度のドイツ・ワールドカップで日本と同じ組に入っている「クロアチア」チームの記事がありました。
先日、香港で行なわれたカールスバーグ杯で活躍したチームの司令塔で
”ボバン2世”とも言われる若きスター、MFのニコ・クラニチャ選手(21)は、実はクロアチア代表のスラトコ・クアニチャ監督(49)の息子なんだそうです。スラトコ監督も現役時代は旧ユーゴスラビアやクロアチア代表として活躍したとか。記事の見出しは、
「サッカーW杯日本と同組 クロアチア導く父子鷹」
本文では、
「若き司令塔と指揮官――。その”父子鷹(おやこだか)”が、クロアチアを8年前のような快進撃へ導けるか。」
と「香港で、大塚貴司」記者が書いています。
2006/2/3

(追記6)

2007年2月8日の読売新聞スポーツ欄で、「北京へ」と題した連載で上村邦之記者が、柔道のシドニー五輪金メダリストの井上康生・明の親子を取り上げています。
その記事の見出しが、
「親子ダカ 再び世界一挑戦」
とあります。この場合「父子鷹」でもいいのに「親子」を使い、「鷹」ではなく「ダカ」とカタカナを使っています。「親子」だと「親子丼」のような感じがしますねエ、どうしても・・・。
2007/2/13

(追記7)

2010年1月19日の産経新聞、「新・関西笑談」という特集で「探せ未来の虎戦士2」というタイトルで取り上げられているのが、阪神タイガースの現スカウト・田中秀太さん。
「秀太選手、今スカウトなんだ」
と思いました。熊本工高出身の田中秀太さん、高校入学後、なんと野球部入部2日目で、代打満塁ホームランを打ったんだそうです。そしてお父さんが、
「息子をプロ野球選手に!」
という思いが強く、いろいろ指導していたそうです。ですからこの記事の見出しは、
「父子鷹で野球に打ち込む。」
でした。ドラフト3位で阪神に指名された秀太選手、実は「横浜ファン」で、阪神に指名されたときには、
「横浜にいきたかったから、少しガッカリでした」
ほんまかいな。引退してからじゃないと、なかなか言えないですよね、こういうことは。(現役の時も言ってたのかな?)


2010/7/25



◆ことばの話694「連れ子」

去年あたりから急増したように思える「幼児虐待」事件。
その中に、母親の連れている子供を、(その子の父親ではない)内縁の夫が虐待するというケースが見受けられます。誤解を避けるために言っておくと、必ずしも自分の子供ではな
ければ虐待するケースばかりではないのは、言うまでもないことです。

このケースで、前の夫(あるいは、前の前の夫)との間に生まれた子どもを、その母親の
「連れ子」
というふうに言います。文字どおりですが、「子」は濁らずに「こ」。母親、あるいは父親が連れてきた子どもです。

この「連れ子」という表現が差別的かどうか。

時々ニュースでこの言葉が出て来るたびに、後輩アナウンサーから
「どうなんでしょうか?」
という問い合わせがあります。

事実「連れ子」であれば、何も差別的な用語ではありませんが、なぜそれを使う場合に、「子ども」という表現ではなく「連れ子」という表現を使うのか、ということを考えると、場合によっては、差別的な意味合いが含まれて使用される可能性がなきにしもあらず。「連れ子」という状況が、そのニュースを伝えるに当たって「必要不可欠の情報」であれば、それを使うことにはなんら問題はないのではないでしょうか。そういった意味では、この「連れ子」という言葉は、「明らかな差別語」ではないと言えるのではないでしょうか。

言葉は、「その言葉そのものが差別的であること」も、ないとは言えませんが、たいていの場合、言葉そのものではなく「それを使う人の意識によって、差別語になったりならなかったりする」と思うのです。

2002/5/24

(追記)

濁るか濁らないか?というポイントで、少し似た言葉に「水子」があります。「流産・堕胎した胎児」(新明解国語辞典)のことです。この辞書では「みずこ」と濁らずに見出しになっていて、その意味の中に(「みずご」とも)とあります。さらに、中部地方の方言では、「生まれて間もない子。あかご」のことを「みずこ」というそうです。それは、ややこしい。「ややこしい」の「ややこ」とは「赤子」のこととも聞きます。「赤子のしょんベンでややこしい」。これはなにわの言葉遊びか。まさに「ややこしい」。
「新潮現代国語辞典」も「みずこ」見出しで、(「みずご」とも)とありました。「岩波国語辞典」は「見出しなし」。「広辞苑」では「みずご」と濁って見出しで出ていて(「ミズコ」とも)とあります。「日本国語大辞典・第二版」には「水子」とともに「稚子」「若子」という文字も一緒に見出しになっていて、読みは「みずこ」と濁らず。(「ミズゴ」とも)とありました。辞書では濁らない方が主流なのかな。

2002/6/1

(追記2)
「共同通信」の「記者ハンドブック第9版」の86ページに「差別語・不快語」の欄に「連れ子」が載っていました。
「連れ子→使用を避ける。『○○○○さんの長男』などに。」
と書き換え例が載っていました。理由は記されていません。


2002/11/10


◆ことばの話693「デファクトとデジューレ」

橋本毅彦『<標準>の哲学』(講談社2002、3、10)という本を読みましたら、非常に興味深いことが書かれていたのでご紹介します。

橋本氏は1957年生まれ。東京大学先端科学技術研究センター教授で専門は科学史・技術史だそうです。この本では、部品の標準化が、大量工業的生産のための必須条件であったことや、コルトの拳銃の部品の共通化・標準化が、シンガーミシンの大量生産につながり、ミシンの標準化が自転車の大量生産に、そしてさらにフォードの自動車の大量生産につながっていったという歴史や、「ネジ」の標準化が20世紀になってようやく達成された
ことなど、興味深い出来事が記されています。ちょっと専門的なのですが、素人にも十分
おもしろい。

そして、この本の第7章「標準化の経済学〜デファクト・スタンダードの功罪」という項を読んでいて、「こ、これ!」と思ったのです。

ここでは、標準化には二通りあって、一つは「デジューレ・スタンダード」、もう一つは「デファクト・スタンダード」と言うのだそうです。

「デジューレ・スタンダード」というのは、法律や公的機関が基準を決定するもので、それに対して「デファクト・スタンダード」とは、例えばビデオのVHSや、マイクロソフト社の「ウインドウズ」(こういうと脇浜アナウンサーは怒るでしょうが、この本にそう書いてあるのです)や、その上で作動するワープロソフト「ワード」のように、多くの人が使用することによって、いつのまにか「事実上の標準」になってしまうものをさすのだそうです。

ここで私はなぜ「こ、これは!」と思ったかとというと、

「言葉にもデジューレ・スタンダードとデファクト・スタンダードがあるのではないか」

ということです。いうまでもなく、「標準語」「共通語」というのは、お上が決めたことですから「デジューレ・スタンダード」、そして、若者言葉や方言、業界用語などは「デファクト・スタンダード」と言えます。

製品の大量生産のために「標準化」が必要となり、そのために国は「デジューレ・スタンダード」を敷いた。それは、明治期に日本という国家が列強に比肩するために、まず言葉の上で「大量コミュニケーション」を必要とし、それによって上田萬年の提唱によって「標準語」政策が取られた。そして現在、大量生産から多品種生産へと消費の現場も変わってきた中で(一部、100円ショップのような大量生産も残っているようですが、あれは賃金形態が前近代的であるがために取れるやり方でしょう。)、言葉もまた、地域の方言などを重要視する方向、つまり「デファクト・スタンダード」に移ってきているのではないか。

さて、21世紀はどんな方向に向かっていくのか?
などと考えていると、夜も眠れません。

一度この本、読んでみることをお勧めします。

2002/5/23


◆ことばの話692「菅原道真」

今年は菅原道真公が亡くなってちょうど1100年なんだそうです。ということは、菅原の道真が亡くなったのは、西暦902年ですか。ふーん。東大寺の大仏が開眼して1250年だっけ。いろいろ節目の年なのですね、2002年。日韓ワールドカップも開かれるし。とにかくそれを記念して(?)菅原道真公を祭った全国の「天神さん」ではいろんな「お祭り」が行われるようです。「道真」を題材にした「能」が演じられたりもするようです。大阪天満宮でも4月の26日、500年ぶりに再現された道真ゆかりの能「菅丞相」が上演されました。また、京都・上七軒の芸妓さんと舞妓さんがみせる「春のおどり」でもこの「菅丞相」が演じられました。これは、

「かんしょうじょう」

と読みます。「丞相(しょうじょう)」は、「大臣」のこと。「菅(かん)」とは、「菅公(かんこう)」、つまり菅原道真公のことです。あ、そうか、「カンコー(菅公)学生服」というのがあったけど、あれは「学問の神様・菅原道真=菅公」から名前を取ったのか。およそ30年ぶりに謎が解明!今、「菅公」と言うと、「菅直人」になるんでしょうか?そう言えば昔、私の何年か先輩の日本テレビのアナウンサーに「菅家ゆかり」さんという方がいらっしゃいましたが、あの方は、やはり菅公に「ゆかり」のある方だったのでしょうか。その
ままやがな。話がそれました。

先日、この「上七軒の春のおどり」のニュースを読んだのですが、その時原稿には、

「かんしょうじ」

というルビが振ってありました。なんで「丞相」の「相」が、「しょうじ」の「じ」になるのだろう?と思って辞書を引くと、「丞相」は「しょうじょう」と載っていました。コンピューターの性能上、文字数の少ない漢字にあまりたくさんルビを振ると、入りきらないでルビの一部が消えてしまっていたのです!危うく誤読するところでした。
さて、その菅原道真。これは皆さん、なんと読みますか?

「すがわらのみちざね」
でしょうか?それとも、

「すがわらみちざね」
でしょうか?つまり「の」が入るかどうかという問題です。

私は「すがわらのみちざね」。「の」が入る派です。しかし、最近は結構「の」を入れないで「すがわらみちざね」という人が増えているような印象があるのです。先日、入社4年目のYアナウンサーも「すがわらみちざね」と「の抜き」で読んでいました。

実際どう読むのか?

実は、4年前(1998年)の1月25日に、全国の有名な「天神さん」3か所に、電話でお話を伺ったことがあったのです。25日は道真の月命日で、関西、特に京都では天神さんの「市」が立ちます。1年で最初の「市」のことを「初天神」、1年で最後の「市」(12月25日)は、「終い天神」と呼びます。その「初天神」のニュース原稿の中に出て来た文章に「菅原道真の命日にあたる」というのがあって、ルビが「の抜き」の「すがわらみちざね」になっていたことから、調べたのです。

その時の回答では、

※北野天満宮(京都)
=特に意識はしていない。原則「の」はつけるが、「の抜き」のこともある。京都大学の先生方は「の」をつけている。祝詞を上げるときも「道浦の俊彦」のように「の」を入れる。若い人は「すがわらの」と言うと「の」まで苗字かと勘違いする傾向があるので「の」を抜くけいこうがある。裏千家家元の「千宗室」さんも、本来、「千利休(せんのりきゅう)」のように、「せんのそうしつ」だが、今は「せんそうしつ」と呼ばれている。

※大阪天満宮(大阪)
=「の」は入れず、「すがわらみちざね公」と呼んでいる。


※太宰府天満宮(福岡)
=「の」は入れずに「すがわらみちざね」。昔は「の」を入れていた。鎌倉時代あたりから、「の」が入らない苗字が主流になってくる。

ということでした。道真公のまさに「おひざもと」でも、「の抜け」の傾向が強まってきているようなのです。
辞書ではどうでしょうか。

「広辞苑」(岩波書店)、「日本語大辞典」(講談社)、「日本国語大辞典」(小学館)
は、すべて「すがわらのみちざね」と「の入り」、
「新明解国語辞典」(三省堂)
には「菅原道真」の項目はありませんでしたが、「菅公」は見出しがあって、その中に、

「天満宮の祭神として生前の高徳がしのばれる『菅原道真(スガワラノミチザネ)公』の略称」


と、「の入り」で書いてありました。

岩波書店の広辞苑編集部
に電話で聞いたところ、

「昔からの呼びならわしで『の』が入る。慣例で「〜の」と呼んでいたが、後世なくなってきた。」

という答え。『の入り』と『の抜き』を併記しないのか?との問いには、

「『すがわらのみちざね』で1000年以上やってきたのだから、ここ何十年か『の抜き』になったとしても急には変えられない」

ということでした。じゃあ、あと1000年はこのままかな、「広辞苑」は。この返事を聞いてから4年経っていますから、あと996年か。

また、当時の他の放送局は、

NHK大阪=「すがわらのみちざね」(=の入り)

毎日放送=「すがわらみちざね」(=の抜き)


でした。2局しかチェックできませんでした。

思うに平安時代〜鎌倉時代の初めごろまでの人は「の」を入れて、それ以降は入れない。「平清盛」は「たいらのきよもり」、「源頼朝」は「みなもとのよりとも」で「の」を入れる、「北条政子」は「の」を入れないで「ほうじょうまさこ」。当然「足利尊氏」は「あしかがたかうじ」で「の」は入れない。

菅原道真は、平安時代の人ですから、「の」を入れたほうが良いと思うのですが、いかがなものでしょうか?

はー、それにしてもさすがに「学問の神様」。ずいぶん勉強させられました。

2002/5/10


◆ことばの話691「黄色い線の内側」

「電車がまいります。黄色い線の内側まで、お下がりください。」

京阪電車のホームに立っていて、構内のアナウンス放送を耳にして、ふと思いました。

「そう言えば、黄色い線の内側って、なんの疑いもなく、ホームの真ん中寄りだと考えていたけど、ホームとホームの間にある線路って、それを駅全体として考えると、線路寄りの方が内側ということになりはしないのかな?」

そんな疑問を、そう言えば少し前にNHK放送文化研究所の原田さんからも問い掛けられたのを思い出しました。その疑問を、初めて「実感」として捕らえることができたのです。まあ、常識的に考えれば今までどおり「プラットホームの真ん中寄り」が「黄色い線の内側」であり、アナウンスはそれを指していることは間違いのないところです。だから「へ理屈だ」と言われれば「まあ、そうですね」ということになるのでしょうが、しかし、「線路側が内側」という考え方を「へ理屈」という一言で片づけるのではなく、「ちゃんとした理屈」でもって片づけたい。最近の小泉総理のように「常識で考えればわかる」という一言で片づけると、人間、施行が停止してしまう、と考えているから、なおさらです。

そう言えば、昔の京阪電車のホームのアナウンスは、

「電車が参ります。危のうございますから白線の内側までお下がりください。」

でした。「危のうございますから」と、「なぜ白線の内側に下がるべきなのか」の理由を述べていました。それも「ウ音便」という丁寧さ。当時(20数年前)東京でも「危ないですから」と理由は述べていましたが、「危ないですから」という言葉は冷たく響き、「危のうございますから」の持つ暖かみはありませんでした。当時は、視覚障害者用の黄色いブツブツのついた板がまだあまり普及してなかったのか、「白線」の内側という表現だったと思います。

それは余談でしたが、こういう風に理由を言えば「白線の内側に下がる理由」がわかりますし、そのためには「内側」はどちらに下がれば良いのか」も、今更説明する必要もないくらいです。その理由を言わなくなったのも、「内側はどっち?」などと考えるようになった原因かと思います。

それはさておき(こればっかりだ)、外側と内側はどうやって決まるか?と言うことを考えてみましょう。この場合は、「今、自分がいる側が内側」「危険を避けるための方向が内側」だと思います。プラットホームの両側に線路があって電車が通る場合など、上りの電車を避けようと「内側」にずずっと下がっていくと、それはプラットホームの中心=真ん中を過ぎた時点で「下り電車のプラットホームの外側」に近づいていることになります。だから、「プラットホームのちょうど真ん中」が「一番内側」になります。これに対して、電車が到着してそれにのろうとする場合は、電車が止っている、電車の社内が「黄色い線の内側」ということも言えます。

つまり、同じ位置に立っていたとしても、その目的によって「外側と内側という呼び名が逆転する」事もありうると言えないでしょうか。もし、言えるとするならば、「内側か外側かというのは絶対的なものではなく、相対的なものである」ということです。

それがわかっただけでも、考えた意味があったのではないでしょうかね。

2002/5/2