◆ことばの話550「腹筋、何百回」

今話題の、お腹に装着するだけで電気の刺激で「やせられる」とかいう器具。最近よくコマーシャルをやっていますね。実際、うちのアナウンス部にも、購入した者がおります。



見るとはなしに、そのコマーシャルを見ていると、こんな宣伝文句が・・・。



「10分程度で腹筋、何百回に相当する筋肉の収縮運動ができます。」



この「何百回」って、何回や?



「数百回」と、どう違うのかな?



私の語感によると、「数百回」は「200〜400回くらい」、「何百回」は、「百回」が1セットとして、それを繰り返すような感じ。少なくとも5セット以上。つまり500〜900回くらいの感じでしょうか。



それにしても「数十」「数百」「数千」「数万」と言う時の「数(すう)」と「何十」「何百」「何千」「何万」と言う時の「何(なん)」、はたまた「幾十」「幾百」「幾千」「幾万」の「幾(いく)」の指す数字は一体いくつなのか?それを知ることで、使い分けもできるのではないでしょうか?



例によって辞書を引いてみましょう。まずは手近な「新明解」から。



「何(なん)」(造語)=幾(いく)。(例)何人、何万。



「幾(いく)」(接頭)=(疑問表現に用いて)数量の不定なことを表す。どれほどの。なん。(幾つも重ねることから、「多くの」の意にも用いられる。)



「数(すう)」=三、四の。五、六の。(文脈により、多い意にも、わずかの意にもなる)(例)数回、数行、数件、数軒、数個、数日、数尺、数丈、数世、数声、数着、数頭、数人、数年、数犯、数匹、数枚、数目、数列、十数人(古くは「す」)



とありました。



「何」と「幾」は期待外れでしたが、「数」は、「三、四」「五、六」のいずれか、と分かりましたし、文脈によって「多く」なったり「少なく」なったりすることもわかりました。面白いですね。「数万円も巻き上げられた」ことがあったり、「マンションの売買代金を数万円しか払わなかった」り、するわけですね。



次は「広辞苑」。



「何(なん)」=「何(なに)」の音便。



何だろね、このそっけなさ。「何(なに)」を見ると、



「物事をどんなものだとは、はっきり定めずに指し、また名がわからない物事を指すのに用いる語。」



とありました。そして、



「幾(いく)」



【1】数量・程度のわからぬ意を表す。(例)「幾たび」



【2】数の多い意をあらわす。(例)「幾千夜」



「数(すう)」



=物が幾つあるかを表す観念。(特に「量」と対比して使うこともある)



ア)沢山であること。「数日(すじつ)・数行(すこう)・数珠(じゅず)」



イ)2〜3あるいは5〜6の少ない数を漠然と示す語。「数日・数人」



ふーん、やっぱり「数(すう)」についての記述は、やや詳しく書いてある。たくさんだったり、少なかったりするんですね。「数珠(じゅず)」の「数」は「たくさん」の意だったとは知りませんでした。



せっかくですから、「日本国語大辞典・第二版」も見てみましょう。



「何(なん)」(接頭)=「名詞について、数・量・程度・時間などが疑問であること、または不定であることを表す。比較的多くは、字音語について用い、「幾(いく)」と対応する。(例)「何回」「何百」「何時(なんじ・なんどき)」など。



「幾(いく)」(接頭)



【1】数、量、時間、程度などが不明あるいは不定であることを表す。いくらかの。どのくらいの。どれほどの。



【2】数、量、程度などの多いこと、はなはだしいことを表す。いくらもの。多くの。



(例)「早乗の駕籠は毎日幾立(いくたて)となく町へ急いで来て」(島崎藤村「夜明け前」)



【3】「いく」と複合してできた名詞または副詞に助詞「も」が付き、その下に否定の語がきた場合は、その名詞または副詞の表す数、量、程度などがたいしたものではないことを示すことがある。どれほどの。たいした。(例)「秋立ちて幾(いく)日もあらねばこの寝ぬる朝開(あさけ)の風はたもと寒しも」(「万葉集」安貴王)



「幾」も、多かったり少なかったり文脈によって変わるんですね。そして最後は「数(すう)」です。いくつかある意味のうちの3番目に注目。



「数(すう)」(名詞)



【3】三、四か、五、六など、いくつかの数量を漠然と表す語。数えきれるくらいのかず。また、特にとりあげて数えられるほどの価値。



こうやって見てくると、「何百回」の「何(なん)」は、「幾」と同じで、回数が多い場合と少ない場合があると。ただ、今回のコマーシャルでは当然、数が「多い」方を意味していることでしょう。その場合、「数百回」とどちらが多いのか?と言うことですが、「数百回」は、どの辞書も「3、4」あるいは「5,6」ということで、「数百回」はどんなに多くても「600回程度」と言うことになります。



「何百回」が、もし「600回程度」以下を指すのなら、「何百回」を使わないで「数百回」を使っても良いはずです。数式にすると、



数百回(=100回〜600回)<何百回<千回



です。そこから考えると、



「何百回」と言うのは、700〜900回程度を指す



のではないでしょうか?



ここまで考えた結果を、「アブトロニック」を購入した後輩に見せたら、



「道浦さん、"何百回"じゃなくて、ちゃんと"およそ600回"と説明書に書いてありますよ。」



と言うではありませんか!そんなアホな!「何百回」という中途半端な言い方をしていたから、私は目に付いたのに。



もう一度そのCMをビデオで見て確認しました。すると、やっぱり



「腹筋、何百回にも相当する」



と言っているではありませんか。ほーら、ごらん、と思ってそのCMを最後までよく見てみると、その器具の名前は「アブトロニック」ではなく「ボディ・スリマー」というものでした・・・・よく似ているので、わからんかった。



しかし、それって、パ・・・(パチン=TVのスイッチを切る音)



(P、S、)ところで、ふと思ったんだけど、「アブトロニック」って、



「脂(あぶら)を取ろう、肉(にく)」



というふうな意味なのかな?シャレで。まさかね。

2002/1/29


(追記)

アメリカに住む先輩から「知ってて、とぼけているんだと思うけど・・・」ということで、「アブトロニック」の語源に関するメールを頂きました。それによると、アメリカでは「ab(アブ)」という名前の腹筋を鍛える道具が多いそうです。というのも「abdomen」が「腹部」を意味し、「腹筋」は「abdominal muscles」、それで、腹筋を鍛える器具のことを略して「ab(アブ)」などと呼ぶそうです。それを電気的にやるので「electronicエレクトロニック」と合成して「アブトロニックabtronic」となったのではないか、ということでした。ご教示、ありがとうございました。

2002/2/6


(追記2)

「広辞苑」の「何」のそっけなさについて、「広辞苑は信頼できるか」(講談社2000・7・7・)の著者、金武伸弥さんから、「この本の中で、その"何"について触れている」とメールを頂きました。さっそく本を開いてみると、30ページに「何の謎」と言う項目がありました。そこには、



「数などが不明・不定のときに接頭語的に用いる"何"が、"広辞苑"には載っていない。"なん(何)"を引くと<代・「なに」の音便>とあるだけだ。(中略)これでは何回・何時・何人などの"なん"はナンなのか、わからない。」



として、「大辞林」「日本語大辞典」のようにちゃんと説明すべし、と説いておられました。

2002/2/13


(追記3)

その後また、類似品のCMを見ました。「アブジムニック」というもので、値段は「アブトロニック」より2000円安い、7800円。で、例の広告の文句は、



「5分で、約300回」



となっていました。それって「10分で約600回」という表現を半分にしただけやんか。あ、でも10分やってはだめで、「1回5分にしときなさいよ」という意味なのかもしれませんね。大体「10分で約600回」というのも、1分あたりにすると60回、つまり「1秒で1回」、ビクン!と電気的な刺激が来るということですね。



実際にこれを購入したという友人からの情報によると、かなり売れてるそうです。宅配のにいちゃんに、「1日何個ぐらい、このアブ○○○を配達してるの?」と聞いたところ、



「100個」



という答えが返ってきたそうですから。確かに私の周囲でも、そんなに太っているとは思えない人から、間違いなく太っている人まで、数人(フタ桁までは行かないけれど)購入しているようです。私?買っていません。なぜって、買った人を見ている方が面白いから。



たまに、肉離れやねんざをした時などに整形外科に行くのですが、その時に電気治療でビビッとするものをやりますが、要はあれの家庭版みたいなものじゃないかなと、私は勝手に想像しているのですが。どうでしょうか。



なお、安売り店では、似たようなものが4800円ぐらいで販売されているという情報も入ってきました。なんだか、すごいなー。

2002/3/17


(追記4)
いやー、もう「アブ○○」のブームも去ったのかな、と忘れかけていた今日このごろ、久々に見てしまいました、類似品。
「スーパーアブソニック」
と書いてあったと思いますが、やはり通販会社のN文化センターの商品。もう、「腹筋○回」とかいうところはあまり強調してなかったのですが、(で、聞き逃したのですが)
そのコマーシャルを見ていると、なんと、今なら
「3つで、お値段据え置き9800円」
だと言うではありませんか!!だからと言って、決して
「じゃあ、1個、3267円で・・・」
とは売ってくれません。くれないと思います。なぜなら、大量に生じた在庫を捌くことが目的なのですから。値段も下げません。その分、たくさん付けてくれます。でもまあ、「欲しい!!」という友人2人と共同で購入すれば、1個3267円で、1個ずつ分けることもできますよね。
しかしこのCMを見て、
「ハァー、ブームが去るのは早いなあ。やはりそのブームの激しさと、飽きる速さは比例するなあ。」
と改めて思いました。物資文明では、モノが行き渡ってしまえばそこでおしまい。大量生産・大量消費は、地球上の人間が有限である限り、どこかで終止符が打たれるのでしょう。
“爆発的人気”が出たものは、爆発の後は収束するしかないのです。
じわじわ息長く売り出すか、爆発的に太く短く行くか。
これは、モノの話だけではなくて、ヒトの生き方にも共通するものがあるかもしれませんね。

2002/8/12



◆ことばの話549「次第と、し次第」

なんとなく気になっていて、そのままになっているもののひとつに「次第」があります。



例えば、「終了する」という動詞に「次第」が付く場合は、「終了次第」でしょうか?それとも「終了し次第」でしょうか?



つまり「名詞十次第」か、「サ変動詞の連用形十次第」かという問題ですね。



思うに、「次第」には二つ意味があって、一つは「君次第」「あなた次第」「運次第」のように「名詞十次第」で、「(その名詞)による」という意味を表すものと、もう一つは「動詞の連用形十次第」で、「〜し終えたらすぐに」という意味です。



だから、「終了する」に付く「次第」は、「動詞の連用形十次第」、つまり「終了し次第」が正しいのではないでしょうか?



ここで、さっそく「次第」を「日本国語大辞典・第二版」で引いてみました。



「次第」(接尾)=【1】名詞に付いて、その人の意向、またはその物事の事情のいかんによる意を表す。(例)「そなた次第」「ぬしの心いき次第」など



(【2】省略)【3】動詞の連用形に付いて、その動作がすんだら直ちにの意を表す。



(例)「帰られ次第」「大阪へ着き次第」



うーん、私の予測は正しかったようですね。



ではなぜ「終了し次第」を「終了次第」かな?と思ってしまうのか?



これは「次第」=「しだい」の「し」と、「終了する」というサ変動詞の連用形の「し」が、「しゅうりょうししだい」と「し」が2回続き、言いにくいので1回にしてしまおう



という気持ちが働くのではないでしょうか。また、サ変動詞の構造が、「名詞十する」というふうにも考えられるので、「あなた次第」「運次第」と同じく「名詞十次第」の型に思われることから、「終了次第」としてしまうのではないでしょうか。



どうでしょうかね。



この考え方を、認めるか認めないかは、あなた次第?



(追記)



と、こんなことを書いていたら、テレビのワイドショーでちょうど言ってました。



「回復次第、事情聴取を行うことにしています。」



これは「し次第」の方が良いという例でしょうね。でも「ししだい」って、言いにくいなあ。



2002/1/22


(追記)

NHK放送文化研究所の塩田さんからメールをいただきました。「〜しだい」に関しては「NHKことばのハンドブック」に載っているとのこと。さっそく、ひもといてみると、



「〜しだい」は、「そのことが終るとすぐ」の意味の場合、動詞の連用形につく。



(例)完成ししだい



しかし、このようにサ行変格活用の動詞に付いた場合の「〜ししだい」という形は、「し」が重なって発音しにくく、話しことばとしてはこなれていないので、なるべく使わないほうがよい。



言いかえは、「完成したらすぐに(ただちに)」「完成後に」など。



と書いてありました。



前半部分は、私が考えたのと全く同じ。後半部分、サ変動詞に関しては、NHKとしては、「ししだい」は「話しことばとしてこなれていない」という判断で、使わない方向のようです。しかし言い換え例のうち、「完成後に」というのは、「〜したらすぐに」という意味が欠けるので、「完成したらすぐに」の方がいいでしょうね。



2002/2/1

(追記2)

昭和57年(1982)に文化庁が出した「"ことば"シリーズ17言葉に関する問答集8」の問28として、「終了しだい」か「終了ししだい」か、というのがありました。



それによると、「終了しだい」「到着しだい」「完了しだい」「帰宅しだい」などというのは、その動作・作用がある時機に終る意味を持つ漢語動詞の場合だけで、「運動しだいでどうにでもなる」「努力しだいで出世する」などのように「しだい」が直接名詞について「その事の程度によって」という意味を表すことがありますが、これは「君の力しだいで運も開けるだろう」などの「しだい」と同じ語法であって「到着しだい」とは違う、というようなことが書いてありました。

2002/2/22



◆ことばの話548「立ち上げる2」

平成ことば事情平成ことば事情548「立ち上げる2」 アナウンス部・道浦俊彦 「平成ことば事情538」で「立ち上げる」について書いたところ、大変、反響があり、ご意見をたくさん頂きました。私としては、「いまさら"立ち上げる"について書くのもなぁ」と思いながらも、読売新聞・橋本五郎さんのコラムに触発されて書いた訳ですが、



これまでに論じられているような「立ち上げる」の問題点や解釈に関して、ほとんど書いていなかったので、改めてそのあたりについて書こうと思います。



まず、一番最近読んだ(今、読んでる最中です)金田一春彦著「日本語を反省してみませんか」(角川ONEテーマ21・2002、1、10)の79ページから数ページにわたって「なぜ"立ち上げる"ことになったの?」という項で「立ち上げる」に関して書かれています。



それによると、



"もともと「立ち上がる」という自動詞のことばはあった。しかし他動詞としての用法はなく、他動詞として使いたいときは「立ち上がらせる」と言った。「母親が子供の手を取って、立ち上がらせた」というように使ったのである。"



"「立ち上げる」という言葉には、立つという簡単な意味の言葉を大げさに偉そうに表現しているような気がしてならない。たかだかパソコンのスイッチを入れて動かしたぐらいで、そんな大げさな言い方をしなくても、と思ってしまう。"



そして、私が「他力本願」というふうな言い方で「ことば事情538」で書いたことに関連しては、



"元来日本人は、他動詞より自動詞を好むクセがあった。例えば亭主が家に帰って、奥さんがお風呂の支度を終えると、「お湯が沸きました」と言う。しかし、自然にお風呂の水がお湯になるわけはない。昔のことだったら、まず水を汲んで風呂桶に満たし、焚き付けに火をつけ、薪をくべて、湯加減を見るなど大変な思いをしたはずである。"



というふうに、日本人が元来、他動詞的表現より自動詞的表現を好んだということについて書いてあります。



"相手に恩着せがましい言い方を避け、なるべくさりげなく言うのがよしとされ"



"いちいちあれもやった、これもやったと言い立てる人は野暮だといわれ、みんなから敬遠されたものである。"



"日本人というのは、元来そうした遠慮深い精神構造の持ち主だったはずである。だからこの「立ち上げる」という言葉を聞くと耳障りな感じがするのかもしれない。"



おお、私が書いたことと同じだ・・・・というか、ちょっと待てよ。もしかして・・・・、これを読んでから、あの文章を書いたような気がしてきました・・・。ガックシ。



このほかにも「立ち上げる」に関する記述は、たくさんあります。国立国語研究所が出している"新「ことば」シリーズ12「言葉に関する問答集〜言葉の使い分け〜」"(2000、7、17)の40ページに「問17」として、



"最近「コンピュータが立ち上がる」という言い方を初めて聞きました。コンピュータに詳しい人が言うようです。このような特定分野での新しい言い方にはどのようなものがあるのでしょうか。"



というのが載っています。これに対する答えは、



"日常的な日本語が専門的な意味で使われる例もあります。標題の「立ち上がる」もその例です。これはパソコンに詳しい人達の間で使用されていたものが、パソコンの普及によって一般の人々の間にも広まったものです。コンピュータを立ち上げる」と、他動詞の形もあります。"



コンピュータは、ほかの電化製品のようにスイッチを入れるだけですぐに使えるわけではないので、使える状態にするのを「立ち上げる」と言う、と説明しています。そして、



"「立ち上げる」は、「プロジェクトを立ち上げる」「会社を立ち上げる」のように「事業を始める」という意味でも使いますが、これも同じ用法と言っていいでしょう。"



と記しています。



このほか、少し古いところでは、高島俊男「お言葉ですが・・・」(文藝春秋・1996・10・15)では109ページに「おかしな言葉が横行するものだ。」という挑戦的な書き出しで「立ち上げる」について書いてらっしゃいます。これは週刊文春の同名のコラムに1995年10月19日号に書かれたものです。ここで書かれている「立ち上げる」の例は、朝日新聞の「震災報道、テレビの1・17」の中の「東京で震度1なのにNHK東京がADESSの速報よりも早く放送を立ち上げたのは・・・・」と言う例、同じく朝日のオウム真理教関連の記事から「即席ラーメンの(製造)ラインを立ち上げたり、缶詰めラインを立ち上げていこうという仕事。」という例。"「立ちあげる」教育を」という高知県の高校の先生が出した本のタイトルなどをあげて、「立つ」は自動詞だが「上げる」は他動詞なので対象物が必要で、この「立つ」と「上げる」がくっつくわけがない、と一刀両断しています。



また、日本新聞協会の新聞用語懇談会放送分科会でも、以前この「立ち上げる」について話し合われたことがあります。2001年の9月20日に行われた放送分科会(東阪の放送局と通信社などで組織)で、毎日放送さんから提議されました。



そこでの話し合いでは、



"「組織化する」「設立する」と言う言い方でも十分なところでも、「立ち上げる」を使うケースが増えている。もとはコンピューター関連か、労働組合関連かは分からないが、濫用は避けるべきだ。"



ということになりました。



また、共同通信社のデスクの方の調べでは、共同通信の原稿で、「立ち上げる」を検索したところ、1989年には1件も使われていなかったのに、2000年には433件も使われていたそうです。この前後の使用状況も分かるともっと良かったのですが、これだけでも、この10年で一気に使われていることが分かりますね。



私も、Googleでネット検索してみました。その結果は、



「立ち上げる」4万2300件



「立ち上げ」40万7000件



共同通信どころではありませんね。むちゃくちゃ使われています。



そして「立ち上げる」という動詞よりも、「立ち上げ」という名詞形の方が10倍もよく使われています。(2002年1月24日現在)



このほか、「立ち上げる」と同じような意味で、文法的にも反感を買いそうにない「立ち上がらせる」を試しに検索してみたところ、たった1610件しかありませんでした。この場合、「立ち上げる」「立ち上げ」に比べてケタが一つ、二つ違うと言うことから、「たった1610件」と言ってもよいでしょう。そもそも、意味は微妙に違う気はしますが。



「立ち上げる」は「立つ」という自動詞と「上げる」という他動詞がくっついたから、違和感があるのだ、というご意見もあります。しかし、同じような語構成の、



「打ち上げる」



はどうでしょう?違和感、ありますか?・・・ないでしょう?



そういったことから考えると、「自動詞十他動詞」であっても、慣れてしまえば違和感はない。やはり、この前書いたように今までは使われたことがなかった言葉に対する「違和感」と、「謙譲の心の欠如」が、「立ち上げる」に違和感を覚える原因ではないでしょうか。



2002/1/28



◆ことばの話547「なりとたり」



平成ことば事情546の「ふくやかな香り」で、思いついたのが、この「なりとたり」。



つまり「馥郁(ふくいく)たる香り」と「ふくよかなる香り」といった場合の「〜たる」と「〜なる」は、どういった違いがあるか?ということで、その終止形が「なり」と「たり」なわけです。



まず、「〜なる・・・」というふうな言葉を思いつく限り並べてみると、



偉大なる(指導者)、大いなる(野望)、慎重なる(態度)、厳正なる(抽選)、快活なる(表情)、完全なる(犯罪)、親愛なる(者)、曖昧なる(態度)、あからさまなる(態度)、明らかなる(不正)、あこぎなる(商売)、浅はかなる(考え)、鮮やかなる(ゴール)、あっぱれなる(態度)、あでやかなる(衣装)、あやふやなる(姿勢)、新たなる(方針)、あらたかなる(霊験)、危なげなる(商売)、危うげなる(商売)、あらわなる(態度)、ありきたりなる(考え)、哀れなる(姿)、いたいけなる(姿)、一生懸命なる(姿)、いなせなる(後ろ姿)、いびつなる(球形)、異様なる(目つき)、うつろなる(瞳)、永遠なる(愛情)、貴重なる(資料)、気ままなる(生活)、滑稽なる(出来事)、しとやかなる(お嬢様)、重大なる(問題)、親密なる(交際)、神妙なる(面持ち)、切実なる(思い)、すこやかなる(成長)、怠惰なる(生活)、絶妙なる(パス)、多彩なる(メンバー)、たわわなる(果実)、たおやかなる(峰)、多彩なる(攻撃)、着実なる(歩み)、痛烈なる(批判)、丁重なる(詫び状・あいさつ)、獰猛なる(猛獣)、唐突なる(別れ)、突飛なる(発想)、なだらかなる(稜線)、にぎやかなる(繁華街)、熱心なる(勤務態度)、のどかなる(風)、のんきなる(態度)、莫大なる(借金)、晴れやかなる(表情)、はるかなる(理想)、卑怯なる(態度)、ひそかなる(思い)、ひたむきなる(姿勢)、微妙なる(関係)、姫やかなる(出来事)、ひややかなる(態度)、ひ弱なる(身体)、不機嫌なる(表情)、不可解なる(決定)、不吉なる(兆候)、不埒なる(態度)、不幸なる(出来事)、ぶざまなる(結果)、朗らかなる(人柄)、ふしだらなる(生活)、ふつつかなる(嫁)、不愉快なる(話)、不憫なる(娘)、膨大なる(債務)、ほのかなる(思い)、まばらなる(人混み)、まろやかなる(味)、見事なる(成果)、無邪気なる(態度)、無念なる(思い)、綿密なる(計画)、明白なる(事実)、憂鬱なる(日々)、勇敢な(若者)、冷酷なる(仕打ち)、僅かなる(蓄え)、露骨なる(いやがらせ)、安らかなる(眠り)、有力なる(情報)、有効なる(手段)、容易なる(変更)、律義なる(奴)、よこしまなる(心)、流暢なる(日本語)、冷淡なる(態度)、・・・・・。



うー、いくらでもあるぞ。この辺にしておくか。(思いつく限り・・・と言いながら、途中から、下記の辞典を引用しました。こんなに思いつくのか!と驚いた方、ごめんなさい。)



続いて、これに対して「〜たる・・・」は、



馥郁たる(香り)、厳然たる(態度)、殺伐たる(風景)、憮然たる(表情)、絢爛たる(挙式)、矍鑠(かくしゃく)たる(老人)、閑散たる(広場)、毅然たる(態度)、怪訝たる(顔つき)、軽率たる(行ない)、厳粛たる(雰囲気)、散漫たる(注意)、切実たる(思い)、沈痛たる(表情)、得意たる(分野)、堂々たる(態度)、歴然たる(結果)



こちらは、「なる」に比べるとかなり数が少ないですね。



※( )内は、その形容に合う言葉の例です。(参考)吉田金彦編「語源辞典形容詞編」(東京堂出版)



私の印象としては、「なる」は和語系統に付き、「たる」は漢語系統に付くという気がするのですが。



思うに「なる」は「にある」から変わったもので、その意味では「自然に、そうある」という「存在」を示し、「たる」は「てある」から変わったもので、その意味では「有るべき姿、たるべき」他から力を加えているような感じがします。



例によって「日本国語大辞典・第二版」を引いてみましょう。



「たり」=体言に付く。格助詞「と」に動詞「あり」の接した「とあり」の変化した語。



うーむ、ちょっと予想は外れた。「てあり」ではなく「とあり」でしたか。続きをみてみましょう。



断定の助動詞。事物の資格をはっきりとさし示す意を表す。・・・である。



と書いてありまして、「語誌」として、



断定の「たり」は平安朝の和文にはほとんど例がなく、漢文訓読文にもっぱら用いられた。中世以降は和漢混交文、抄物などに現れるが、室町中期以後はまれになり、江戸時代にかけて「何たる」のような複合語の用例に限定されて行く。なお江戸時代前期の上方文学では、「何たる」のほかに「親たる人」のように、身分を表す名詞に付くものがほとんどである。ただし明治以後の文語文にはまた例が見え始める。



とありました。詳しいですね。では「なり」はどうか?



「なり」



【1】場所や方角などを表す名詞に付いて、その場所に存在している意を表す。「・・・に在る。」中古以降では、主として連体形だけが用いられる。



【2】ある事物に関して、その種類・性質・状態・原因・理由などを説明し断定することを表す。「・・・である。」



「語誌」としては、



"格助詞「に」と動詞「あり」との融合したもの。もとのまま、融合しない「にあり」また「に(は)あれ(ど)」「に(こそ)あれ」「に(ぞ)ある」のように分離する場合も少なくない。



"しかしここで、ふと感じたのですが、よく考えると「ふくよかなる」の「なる」は、「ふくよかだ」という形容動詞の連体形の活用語尾ではないかな?



嗚呼!しまった!「なる」と「たる」について考えて損した・・・。



と、思ったら、「語誌」の続きにこんなことが。



"形容動詞語尾「なり」と、この助動詞「なり」とは、連体形の用法として連体法の用例が助動詞では限られているなど、いくらか違いはあるが、ほぼ同質のものと考えられる。形容動詞を認めないで、その語幹を一種の体言とし、その語尾を助動詞の「なり」に含める考え方がある。"



おお!この考え方なら「たり」と「なり」を対峙することができるぞ。あながち、見当違いでもなさそうだ。もうちょっと考えてみよう。



例によって、「ことば会議室」でこのテーマを投稿したところ、数人の方に書き込んでいただきました。それによると、山田孝雄の「日本語文法論」(1908年・p356)に、



「なり」と「たり」について下記のように書いてあるそうです。(Yeemarさんによる)



「なりと「たり」との意義上の差をいへば、「なり」は内面的にして主として断定をあらはし、「たる」は外貌的にして主として状態をあらはせり。



これは子なり。



我は子たり。



また、UEJさんという方の書き込みにYeemarさんが答えて、「なり」と「たり」の両方に対応できる言葉はあるのか?ということについて、



「自然に」



「自然と」



があるのではないか?ということでした。



「自然に」は「なる」系、「自然と」は「たる」系ですね。



この場合、私の語感では「自然に」の方がもともとあったもので、より「自然」で、「自然と」は後から出来たのではないか?少し不自然な感じ、方言的な感じがします。



このほか、「意外に」と「意外と」も同じような関係ではないでしょうか。



「私って、意外に、料理が上手だったんです。」



「私って、意外と、料理が上手な人なんです。」



という二つの文を比べた場合、「意外に」は内面から出た感じがしますが、「意外と」は、



自分ではない、第三者が感じた感想を述べているように聞こえませんか?聞こえるとしたら、そこに「自分のことを他人事のように言っている」ことに対して、違和感を感じるかもしれません。



「なり」と「たり」、今後もまた気づいたら続編を書きますね。とりあえず今回はこの辺で。

2002/1/28


(追記)

「静謐(せいひつ)」は「なり」でしょうか「たり」でしょうか?



漢語系なので「たり」かな?とも思うのですが、この短い期間に両方の言葉を見つけました。



芥川賞作家・辻仁成の「冷静と情熱のあいだ」(角川文庫)p89に、



静謐な中庭に出た」



という「なり」系を見つけました。



そのちょっと前の新聞(1月29,30,31あたり)で、とある映画賞の女優主演賞の受賞理由に



静謐とした演技」



という「たり」系がありました。「静謐」は「自然」と同じく「なり」「たり」両系を持つ言葉かも知れません。



日本国語大辞典で「静謐」を引きました。「名詞」「形容動詞」と出ています。「名詞」なら「名詞十と」と言う形があり得ますし、「形容動詞」なら「なり」になりますね。



今回は、辞書に書かれた意味ではなく、用例を中心にみましょう。



「強い力が籠っているやうだが、それと共に飽迄静謐だ」(森田草平「煤煙」1909)



「西洋の宗教画に出てくるような静謐と浄らかさと」(遠藤周作「影法師」1968)



この二つしか載っていませんでした。ガッカリ。上の例は、形容動詞の「なり」系統と思われます。下のは名詞ですね。「静謐と」ではなく"「静謐」と「浄らかさ」"ですから。



なかなか詳しい説明には行き当たりませんねえ。

2002/2/4


(追記2)

山口明穂・鈴木英夫・坂梨隆三・月本雅幸「日本語の歴史」(東京大学出版会1997年)の第四章「江戸時代前期」の項(坂梨隆三氏が担当)の134ページに「形容動詞」について、次のような記述があります。



タリ活用は行われなくなり、ナリ活用だけになった。形容動詞は今日、終始形は「−だ」、連体形は「−な」であるが、江戸時代前期は終止形も「−な」の形をとることが多い。 今日では体言に断定の助動詞が付いた、「(彼は)学生だ。」の形と、形容動詞の終止形「静かだ。」とは形の上で似ているが、今期においては体言に断定の助動詞が付いた形は、



(3)コレヤ、平野屋の徳兵衛じや、男じゃが合点か



のように「−じや」となる。



とありました。 「タリ」の方が早く廃れ、その後「ナリ」が残ったということのようですね。

2002/2/15




◆ことばの話546「ふくよかな香り」

1月16日、茶道・裏千家で、初釜式が行われました。(余談ですが、裏千家では「チャドー」と言います。表は「さどう」だったと思いますが。)



その時の様子を伝えたニュースで、こんな表現が出てきました。



「ふくよかな茶の香りが・・・・」



ん?「ふくよかな」?私の持っている「ふくよかな」の語感は、



「ふくよかな身体」「ふくよかな胸」



というふうに、ふっくら膨らんでいるような感じで、しかも何か実態を持ったもの=手で触われるもの、というイメージなんですけど。・・・いや、触わりませんけどね。触わりませんよ。



で、「お茶の香り」は、手で触われないじゃないですか。(あっ!「じゃないですか」を使ってしまった!まあ、これはいいのかな?)



「お茶の香り」に使うのならば、



「馥郁(ふくいく)たる香り」



の方がいいと思うのですが。そう思って、「ふくよか」を辞書(広辞苑)で引いてみると、



「ふくよか(膨よか・脹よか)」=肥えているさま。ふっくらしているさま。柔らかで豊かなさま。ふくやか。ふくらか。



例文としては「ふくよかな女体」「ふくよかなかおり」「ふくよかな人柄」



と、3つ出ていて、なんとその中に「ふくよかなかおり」があるではないですか。



ついでに「馥郁(ふくいく)」を引くと「よい香りの漂うこと」とあります。「よい」の内容に関しては、詳しくは書いてありません。



「日本国語大辞典・第二版」も引いてみましょう。せっかく買ったし、全13巻揃ったし。



「馥郁」=香気の盛んにかおるさま。よいかおりのいっぱいに漂っているさま。



「ふくよか」(よかは接尾語)=ふっくらしているさま。柔らかそうにふくらんでいるさま。ふくら。ふくやか。ふくらか。



ちょっと詳しくなったけど、似たようなものか。でも、「ふくよか」は、私が「触われるもの」と言いましたが、「柔らかいかどうか」は、もちろん触わってみなくちゃわからないし、「ふっくらしている」とか「ふくらんでいる」とかいうのは、本来"視覚"、つまり"見え"なくては「そうかどうかわからない」のではないでしょうか?



まあ、しかし"嗅覚"にも"香りのふくらみ"という表現はありうるなぁ。でも、もとは「視覚」に使われた表現だから、私は何か引っ掛かりを感じるのかもしれません。



でも「馥郁」は、感じが難しいから、「ふくよか」でいいのかな。



ちょっと弱気になっちゃった・・・。

2002/1/21


(追記)

これを考えていて、次の課題(?)「たりとなり」を思いつきました。「馥郁たる香り」と「ふくよかなる香り」の「たる」と「なる」の違いについてです。乞う、ご期待!!



2002/1/22


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