◆ことばの話545「とこしえととわ」

あの長嶋茂雄選手が引退の時に言ったセリフ、



「巨人軍は、永久に不滅です」



ですが、この「永久」を、よく「永遠に」と間違います。なぜか?



「永久」は形而下的、「永遠」は形而上的な感じがするんです。え・わかりにくい?



つまり、「永久」は「物理的」に続く感じ、「永遠」は「精神的」に続く感じ。もっと言えば、「永久」は「記録」、「永遠」は「記憶」。



長嶋さんは、「記憶に残る選手」と言われていたので、よけいに「永久」よりも「永遠」といったように感じたのではないでしょうか?このことは以前も書いたような気がしますが。



さて、この「永久」と「永遠」に「えいきゅう」「えいえん」ではない読み方のルビをふるとします。とりあえず思いつくのが、「とこしえ」と「とわ」ですが、あなたは、どちらに「とこしえ」と「とわ」のルビを振りますか?私の感覚では、



「永久(とこしえ)」



「永遠(とわ)」



ですね。では、「とこしえ」と「とわ」の意味の違いはどうなんでしょうか?



辞書(広辞苑)を引いてみました。



「とこしえ」(常しえ・永久)=永く変わらないこと。いつまでも続くこと。とこしえな。(例)「とこしえの愛を誓う」 (下線は道浦による)



おー、結構、広辞苑はキザですなー、例文が。



で、「とこしえ」の前に「とこし」というのが載っていたので、これも書き写しましょう。



「とこし」(常し・長し・永久し)(形シク)=「常(とこ)」の形容詞形。永久である。常にある。



「常(とこ)」も引いちゃえ!というか、辞書ではすぐ横ですから。



「常(とこ)」(接頭)=いつも変わらない、永遠であるの意を表す語。



なーるほどね。愛知県常滑(とこなめ)市の「常(とこ)」ですね。



では、「とこしえ」の「え」は何か?



「え」(接尾)=「方」その方、その向きの意を表す。「ゆくえ」「しりえ」「いにしえ」



あっ、そうか、「とこしえ」と「いにしえ」は対(つい)なんですね。「常(とこ)しえ」と「去(い)にしえ」か。「去る」の意味の「いぬ」ですね。「し」は過去形か、若しくは強めの「し」ですね。(どっちかな?)で、「え」は方向。



また、「しりえ」は「後方」。「国後(くなしり)島」の「後(しり)」ですね。これも空間的な「後ろ」という意味と、確か「時間的な後ろ=過去」という意味があったかに記憶していますが、その記憶もしりえに・・・。



話がそれてしまいました。



「とわ」を引くのを忘れてました。



「とわ(常・永久)」=(平安時代まではトバ)長く変わらないこと。とこしえ。永久(えいきゅう)。(例)「とわの別れ」



(下線は道浦による)



「とわ」を引いても意味の中に「とこしえ」と出ているのでは、堂々巡りというか、意味に違いがないみたいだけど。でも「とこしえ」では「永く」なのに、「とわ」では「長く」だから、何かニュアンスの違いはあるんでしょうね。「長い」と「永い」



「長い」は、「長さ」を物理的に計れるけど、「永い」の「永さ」は、物理的に計れないですよね。大体「永さ」というのは、なじまない表記だな。



そうすると、「とわ」は形而下・物理的で、「とこしえ」は形而上・精神的?



そうかなあ?



例文で比べると、「とこしえの愛」と「とわの別れ」。「愛」の分量は計れないけど、「別れ」は目に見えますよね、その瞬間が。(見えないこともある。)そうするとやはり、「広辞苑」の説明通りなのかな?



「日本国語大辞典・第二版」では、どうでしょう。



「とこしえ」=ながく変わらないさま。永久不変であるさま。いつまでも同じ状態で続くさま。えいきゅう。とこしなえ。



「とわ」=いつまでも変わらないこと。永久不変であること。また、そのさま。とことわ。とこしえ。つね。



(下線は道浦による)



こちらも「とわ」の説明に「とこしえ」が出て来ちゃってる。でも「長」「永」の使い分けはやめて、平仮名にしているところに、ちょっと違いあり。また、「とこしえ」は「永久不変であるさま」だけしかないのに対して、「とわ」はまず「永久不変であること」とあってから「その、さま」となっていて、



「とこしえ」=「あるさま」



「とわ」=「あること」



という違いが見受けられます。これは、「さま」が、そのままの"状態"に対して、「こと」は「あるべき姿」のようなものを感じさせてくれます。 そこから考えると、「とわ」を目指す様子を指したものが「とこしえ」なのかもしれません。



もっと言うと、「とこしえ」はこの世にあるけど、「とわ」は、この世にはないような気がします。



「どっちでもええやん、そんなん」



という声も聞こえてきそうですが、何か、深い世界を覗き込んだような気がしてきました。



あっ、そうそう、「とこしえ」と「とわ」の決定的な違いがありました。



「とこしえ」は人の名前にはありませんが、「とわ」(「とは」)は、女性の名前にあります。誰の名前かって?



そりゃあ、決まってるでしょ、「花魁(おいらん)・千早」の本名ですよ。(千早のお母さんの名前、という説もありますが。)



※詳しくお知りになりたい方は、落語の「千早振る」を、読むか聞くかして下さいね。

2002/1/21


(追記)

読売新聞記者・石山茂利夫さんの「今様こくご辞書」(読売新聞社1998,8,15)の203ページに"「永久に」〜不安の胸に永遠に残る長嶋茂雄の現役引退あいさつ〜"というタイトルで、冒頭の話が詳しく載っていたのを思い出しました。



またその中で、「現代国語例解辞典」では例文を挙げて「永遠」の項目で、「永遠」「永久」「とわ」の使い方を取り上げているそうです。で、



【1】 〜に栄える(永遠、永久、とわ、三語とも使える)



【2】 〜の眠りにつく(永遠、とわ)



【3】 〜に回り続ける天体(永遠、永久)



で、「永遠」と「永久」の違いについてこの辞典の編者の林巨樹(おおき)さんは、



「"永遠"は精神的な意味合いが強い上に時間を超えて存在すると言う意味もあります。"永久"のほうは、どちらかと言えば、自然科学的、物理的な時間の長さで使われることが多いです。」



と述べているそうです。



なぜ、長島選手に言葉「永久」が「永遠」に置き換えられたかについては、この本を読んで下さい。面白いですよ。

2002/1/24




◆ことばの話544「わからいでか」

後輩のMアナウンサーが、質問してきました。(YTVのアナウンス部に所属している18人のアナウンサーのうち、6人がMアナウンサーですが。)



「道浦さん、"シャンドレ"ってなんですか?」(アクセントは「HLLL」。Hは高く、Lは低く発音。つまり頭高で、彼女は発音しました。)



「???どういうところに出てくるの?」



「賃貸マンションを探していたら、物件で出てきたんですけど・・・。広辞苑にも載ってなくて・・・」



「・・・それはもしかして、"シャンプー・ドレッサー"のことじゃないの?」



「!そっかぁ!」



と疑問は氷解しました。



「さっすが、道浦さん!よくわかりましたね。」



と誉められて、"鼻、たっかだかー"の私が、



「わからいでか!」



と答えると、



「それ、どういう意味ですか?」



「知らんか?"わからいでか"」



「わかりません・・・。」



「"わからないはずがあろうか、いや、わかるに決まっている"という意味の大阪弁やで、たぶん。"反語"ちゅうやつやね。ほかにも、"知らいでか""行かいでか""食わいでか""買わいでか"とか、いろいろできるね。」



「へー、私はまた、"わかるはずがない"という意味かなあ、って、ちょっと思いました。」



「それじゃ、意味が逆やないか。」



という会話がありました。



念のために「大阪ことば事典」(牧村史陽・講談社学術文庫)を引くてみると、「いで」の3番目の意味で載っていました。



「いで」



【3】・・・しないものか。(反語)(例)怒らイデか、人をアホにしくさって。



知らんかなぁ、「知らいでか」。Mアナウンサーは大阪府八尾市生まれで大分育ちの24歳。若い人は使わないということかなあ。今、このワープロで「知らいでか」を変換したら、



「白井でか」



になってしまいましたが・・・・。白井刑事(デカ)?大阪府警でっか?ついでやから「あぶないでか」も変換してみようか?「危ないでか」・・・そのままでした。このワープロも、大阪弁は、よう変換せんようです。(「よう〜せん」=〜することができないというう大阪弁です。念の為。)

2002/1/18




◆ことばの話543「呼び出し・拓郎」

いつのまにか、始まっていますね、大相撲。ひと頃の人気を考えると、この「静けさ」が嘘のようです。



さて、その相撲の中継を見るともなく見ていた、タイムキーパーのHさんが、急に素っ頓狂な声を上げました。



「この人、拓郎って言うのね!」



見ると、「呼び出し」が土俵に上がり、力士の名前を読み上げているのですが、テレビに映ったその姿に、字幕スーパーが、



「呼び出し 拓郎(北海道)」



と、出身地まで出ているではないですか。名字は「吉田」じゃ、ないでしょうね。「結婚しようよ」ならぬ「相撲取ろうよ」。視聴者へのメッセージソング「相撲見ようよ」。



僕の髪があー、肩まで伸びてぇー、銀杏結えるようにぃー、なーったらぁー、約束通りぃー、両国国技館でぇー、相撲取ろうよぉー、ウフーフー。



あまり相撲を知らない私などは、「呼び出し」と聞くと、「勘吉」とか「伊之助」(伊之助は行司か)とか、ちょっと(こう言っては何ですが)古い感じの名前、よく言えば伝統を感じさせるような名前を思い浮かべてしまいますから、「拓郎」は新鮮です。頑張れ拓郎!!そう言えば呼び出しは、フルネームでは呼ばれず、ファースト・ネームだけのようですね。



すると、今後は、「イチロー」とか「大輔」「大樹」「純一郎」とか「美勇士(みゅうじ)」とか、そんな名前の「呼び出し」も出てくるんでしょうか?



力士の四股名も面白いですが、呼び出しの名前にも注目すると、さらに面白いかもしれませんね。



※これを書いた後に、相撲担当の山本純也アナウンサーに聞いたところ、「呼び出しは、本名ではない」そうです!確かにその後に出てきた「副立(ふくたて)呼び出し」は、「栄太呂」という名前でした。これは本名っぽくないですしね。そうすると、「イチロー」とかはなさそうですね。ちょっと残念・・・。呼び出しの名前に詳しい方、是非メールを下さいね。

2002/1/15



◆ことばの話542「歌会始め東西南北」

小正月の今日、1月15日、皇居では恒例の歌会始めが行われ、その模様がテレビで中継されていました。



「おっ、歌会始めか。」



と思って、会社のテレビのボリュームを少し上げたところ、



「トーーーーンーーーーーネーーーールーーーーーのーーーーーーーー」



といった声が流れてきました。それを耳にしたMアナウンサーが、



「あ、なんだ"歌会始め"かぁ。誰か、発声練習を始めたのかと思った。」



そうですね、アナウンサーの発声練習で、一つの音を長く伸ばすロングトーンの練習のように、長く間延びした札の読み方ですもんね。



なんせ、一首読み終わるのに、1分くらいかかってますもんね。サッカー中継の時の



「ゴーーーーーーーーーーーール!」



よりも長いですよ、うるさくはないけど。



同じかるたでも、正月にやはりテレビでやっていた、近江神宮の「かるた選手権」の時の様子と、随分、雰囲気が違いますね。あちらはまるでコンマ・ゼロ1秒を競うような、スポーツ感覚の「カルタ取り。」それに対してこちらは、悠久の歴史に思いを馳せるような、忘れていたゆったりとした「時の流れ」を思い起こさせるような和歌のしらべ、とでも言うんでしょうかね。



そう思って、新聞を見ていると、1月13日(日)の日経新聞の文化欄に、作家の大庭みなこさんが「一番争いはもうやめて」というタイトルの文章を書いていました。



それによると、近江神宮でのこの「かるた選手権」をテレビを通じて(おそらく)初めて見た大庭さんは、優雅なかるた取りを連想していたので大変驚き、「その動きはスポーツそのものだった」と書いています。そして、



「このチャンピオンたちにとって百人一首の歌の意味はどういうことになるのだろうと、ふと疑問が湧いてくる。」



「競争相手を蹴落としてトップになる・・・これがアメリカンドリームであり、アメリカのみならず世界中の人の夢でもあった二十世紀であるが、さてその結果として出来上がった世界に人々は幸せな顔をして安らいでいるだろうか。」



「勝者の喜びの裏には敗者の悲しみがあり、自由とは他者の自由の侵害の上に成り立つのだと言う認識がなければ、人に溢れるこの狭い地球の将来は危うい。」

「・・・他者を蹴落として生きることを考えるよりも、他者と並んで生きることを。それが雅の世界というものだろう。」 と結んでいます。



皇居での優雅な和歌のしらべを耳にするにつけ、今の世界の在り方、自分の生き方などにも思いを馳せてしまいました。



なお、テレビでその時やっていたのは、最年少で入選した大阪・清風高校一年の中迫克公君(16)の歌で、



「トンネルの むかうにみえる 僕の春 かすかなれども いつか我が手に」



でした。今年のお題は「春」でした。

2002/1/15



◆ことばの話541「年賀状のコメント」

今年もたくさん、年賀状をいただきました。メールでのお年賀というのもいただきましたが、やっぱりお正月はハガキの方が嬉しいものです。



その中の手書きのコメント。いつも私はひとこと書き添えるようにしているのですが、いただく年賀状にもそういった傾向がありました。



中には、いまや年賀状だけのお付き合いになってしまって、特に書くことがない人もいますよね。そういう人にも、私は何か関連のありそうな自分の近況を書き添えています。



も私に対してそれほどお付き合いがなくなってしまったけど年賀状を出す場合に、そういうふうにしている人も多いと思いますが、時々こういう"ひとこと"だけが記されている時があります。



「お元気ですか?」



これを見ると、「私のことを気遣ってくれていて、優しい人だなあ」と思うのです。そして「いつも自分のことばかり書いて、コメントで相手を気遣うなんてことは考えてなかったから、今度から自分も人に出す場合は、相手のことを気遣って"お元気ですか?"って書こうかな」と、一瞬思うのです。「ひとこと」だけだから、簡単だし。



しかしよく考えてみると、ひとことだけ「お元気ですか?」と書かれているよりも、



「趣味で陶芸始めました。」



とか、



「まだ現役でボールを蹴っています。」



「3月に二人目が生まれる予定です」



といったふうな「その人にまつわる新情報」がひとこと添えられている方が、読む私にとっては「楽しい賀状」なんです。おそらく相手の人もそうでしょう。



そうすると、ひとことだけの「お元気ですか?」のありがたみが薄れてきます。一応、その「お元気ですか?」の前には、書いてはいないけれど「私は元気でやっていますが」という、前提条件を表す言葉がついているはず(あるいは、つもり)なんでしょうが、そう考えると、最初「相手を気遣う言葉」に見えたこの「お元気ですか?」は、実は、



「(俺は元気だけど、おまえのことはわからんしそんなに興味ないけど、一応聞いてみるか。)どうだ調子は?(返事は要らないよ。そんなに気にしている訳でもないし。)」



というふうな、結構"傲岸不遜"な言葉にも思えてきました。ごっつい悪い奴やな、「お元気ですか?」ひとことだけ書くヤツは・・・・考え過ぎか。



いずれにせよ、印刷された言葉だけで、手書きの言葉は何にも書いていない年賀状よりは、ひとことでも添えてある方が、まだいいかな、と思います。



そうそう、宛名もパソコンで印刷されたものが増えました。我が家は今年は、パソコンと手書きの混在で送りましたが。でも中には「?」というのもあります。どういったものかというと、宛名もひとことも、全部「本人ではなく奥さんに書かせている年賀状」。バレなきゃいいですが、バレバレのは「失礼」ですよね。その奥さんと面識があればともかく、会ったことも見たこともない場合が結構あって、これがバレるんだな。



今年も「道浦俊彦様」という宛名で来たのに、全然知らない人だったので、妻に、



「この人、知ってる?」



と聞くと、



「ああ、会社の人。」



と言うではないですか。妻も会社勤めをしているのです。その人に会ったこと、あったっけ?



「ううん、ない。きっと奥さんに宛名書きを任せっきりでチェックしてないのよ。去年届いた年賀状を奥さんに渡して、"これ、書いといてくれ"って。奥さんは、会社関係の人に出すんだから、まさかわたしのような女の人に出すのだとはわからずに、男の人の名前、つまりあなたの名前を書いちゃったのよ。」



なーるーほーどー。



宛名書きを、「他人(ひと)に頼む」という考えが(それがたとえ妻であっても)これっぽっちもない私には、考えもつかないことが世の中には起こっているのだなあ、と感心しました。



でも、よく考えてみると失礼な話やで、実際。奥さん宛てに、返事出したろか。

2002/1/12


(追記)



もうひとつ、ちょっと「ムッ」とした年賀状のコメントがあります。現在週2回、朝3時に起きて、4時に出社するという「早起き」な番組を担当しているのですが、その同じ番組を担当している、後輩アナウンサーからの年賀状に、



「早起き、頑張りましょう」



と書いてあったのです。もちろん本人には悪気はないのでしょうけど、目上の人に対して「頑張りましょう」



は、失礼ではないかい?だって、社長に対して年賀状で、



「経営もなかなか大変ですが、頑張りましょう。」



なーんてハガキは、出さないでしょう?あなたが社長より偉いか、同級とかでない限り。



「頑張りましょう」は、本来、同輩以下の人にしか使えないものでしょう。だから、後輩から「頑張りましょう」と書かれた葉書をもらうと、



「タメグチききやがって・・・!」



と感じてしまうのです。 それにほら、小学校で通信簿の5段階評価が3段階評価になった時の、「たいへんよくできました」「よくできました」の下の、最低の評価が、



「頑張りましょう」



だったことを私は忘れていません。



・・・そう思われているのかな、後輩に・・・・。クーッ・・・・・(涙)。頑張ってるつもりなんだけど。

2002/1/17


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