◆ことばの話495「わ抜け言葉」

先日、税務署に呼ばれました。

と言っても、どこかのプロ野球監督の妻のように脱税をしていた訳ではありませんから、ご心配なく。近畿2府4県の税務署で電話交換の仕事をしている女性の皆さんを前に、アナウンサーと言葉についての話をして欲しいと依頼されて、講演を行なったのです。

その時に、私ともう一人、話し言葉研究所の所長さん(女性)も講師として招かれていました。休憩時間にその先生とお話をしていたんですが、その時の彼女の話は、



「最近の若い女性は、"〜だぜ"など、男性と同じようなしゃべり方をする。はしたない!」



ということでした。

確かに、以前(といっても、もうずいぶん昔の話ですが)は、男性の言葉と女性の言葉ははっきり違ったと思います。今は、面と向かって会っていればもちろんわかりますが、パソコンの画面上や紙に書かれてものから、その発言が男性か女性かを判断するのは難しくなっているかも知れません。

「女性の言葉が男性と同じようになってきている」という、先生のお話も「なるほど」と思いますが、それと共に、「女性の発言だ」と一目で分かるような「特徴的な語尾」の言葉が消えたというとも、言えるのではないでしょうか。

具体的に言うと、「わ」です。例えば、

「今日はそこにはいけないわ」

「楽しいわ」

「それじゃあ、間に合わないわよ。」


といった発言の中の語尾の「わ」。耳にしなくなりましたねえ。女の子でも同じ内容の発言だと、

「今日はそこにいけない」

「楽しいね」

「それじゃあ、間に合わないよ。」


と「わ」のない形、あるいは「わ」の代わりに「ね」が入る形になっているのではないでしょうか。

つまり、現代の女性の言葉は、昭和初期〜中期の女性言葉に比べると「わ抜け言葉」とも言うべき状態になっているのです。

「ね」がはいっているとまだ柔らかい感じがしますが、これは主に「幼児向けに大人が使う」ことが多いような感じもします。

男女同権ということはもちろん大切ですが、「同権」ということと「全く同じ言葉を使う」ということは同じではありません。男女それぞれの特長をより生かした(それも人によって違いますが)言葉という者も模索する必要があるように感じます。

「わ」は大切だと思いますよ。ほら、あの聖徳太子もおっしゃっているではありませんか、「"わ"をもって貴しとなす」

って・・・。タモリさんも20年に長きにわたって言い続けていますよ・・えっ?もういいですか、やらなくても。そうですか、ハイ。

2001/12/6
(追記)

野元菊雄著「敬語を使いこなす」(講談社現代新書1987、9、27)の54ページから、「敬語の移り変わり」と題して、志賀直哉の「好人物の夫婦」(1916)と「邦子」(1927)、

「老夫婦」(1948)での夫婦の会話の実例が取り上げられています。

それによると、「好人物の夫婦」(1916)では、



「そんな事を仰有つちやあ、もう駄目」

「よし、もう旅行はやめた」

「まあ!」

「まあでも何でも旅行はもうよす」

「そんなに仰有らなくてもいいのよ。御旅行遊ばせよ。いヽわ、多分仕ないつて云つて下さつたんですもの。私が何か云つておやめさせちやお悪いわ。おいで遊ばせよ。」




と、ものすごく丁寧。もちろんどちらが妻でどちらが夫か、一目でわかりますね。

次に、11年後書かれた「邦子」(1927)では、



「今まで貴方はそんな仰有つた事ないわね。私初めてうかがふわ」

「云う必要がなかつたからだ。又余り自慢にもならない考だからだ」

「つまり悪い事だと、御自分でも思つていらつしゃるんだわね」




丁寧ですが、少し関係が近い感じ。でも、どちらが女でどちらが男かは、わかります。

そして、さらに21年たった「老夫婦」(1948)では、



「煮た方がいいかな」

「ご飯のおかずだからね。・・・何だか急に忙しくなった」

「そんなにあわてなくてもいいよ。どうせ九時半のバスで行くより仕方ないぢやないか」

「さうねえ、幾ら急いでも九時半より早く出かけられないのね」




ここに至っては、あまり男女差が感じられなくなりました。戦前と戦後という事も、あるいは関係しているのかもしれません。または、32年の時間の流れの間に、志賀直哉が感じる男女の間の会話も変化してきたのでしょうか。この「老夫婦」が書かれた1948年から、もう53年、半世紀以上の時が流れています。 そう考えると、言葉は変わっても仕方ないのかなあ、とも感じてしまいました。

2001/12/7

(追記2)

テレビ脚本家の北川悦吏子さんのエッセイ集「毎日がテレビの日」(角川文庫、2000・6・25)の中に、「『だよ』と『かしら』」という項がありました。(p17〜p19)

そこで北川さんは、40代後半の女性が「だよ」を使うのは抵抗がある、またそうかと言 って「かしら」は、生まれてから3回くらいしか使ったことがないとも言っています。

そして、「かしら」から「だよ」に変わったのは、テレビドラマの「東京ラブストーリー」の鈴木保奈美演じる赤名リカからだと断言しています。北川さんによると、それまでの恋愛ドラマのヒロインは「かしら」だったそうです。

そうだったのか。

2002/3/26


◆ことばの話494「春一番」

師走です。

新世紀も終り・・・ではありませんが、21世紀最初の一年が暮れようとしています。

この時期、ラストスパートに入るのが、受験生の皆さん。私も大学受験の時は、結構一生懸命、受験勉強しました。一番キライだった数学が、やっているうちにちょっと面白くなってきたのが、不思議でしたが。

さて、そんな受験生の皆さんが、万が一・・・の場合、というか、万が一にならない為に受験準備を始める高校1、2年生の皆さんを対象とした予備校の広告が、早くも駅の広告に登場しています。その文句(コピー)が、



「○○台で ひと足先に 春一番」



というものでした。

そうか、春には一番になって合格!私には人より早く一番に春がやってくるんだ!というウキウキする気持ちが表れて・・・いますう?

だって「春一番」ですよ、「春一番」。

「春一番」の定義は、



「立春後、はじめて吹く強い南よりの風。はるいち。」(広辞苑)

つまり、「強い風」なんですよ。「南寄りの風」とは言え、寒いよ。

それが○○台予備校に行くと、ひと足先に吹くんでしょうか。「春一番」は合格の便りを乗せてやってくるのかな?それならいいんですけど。

どうも「春一番」に吹き飛ばされてしまうような、そんな感じがしないでもないな。

イメージと実態が違うのこの言葉の、イメージの方を優先してこのコピーは作られたようですが、じっくり考えると、受験生も「おや?」と思うのではないでしょうか?

こちらの現代国語や古文の授業では、どういうふうに教えているのか、聞いてみたい気はします。

2001/11/30


◆ことばの話493「炭坑マン」

11月29日、九州最後の炭坑である、長崎県の池島炭坑が閉鎖されました。

そのニュースの中で、中継リポーターが炭坑夫のことを



炭坑マン



と表現していました。

耳慣れない言葉です、炭坑マン。銀行マンなら聞いたことありますが。

「○夫」というような、職業の呼び方については、中にはたとえば「人夫」のように、失礼に当たるとして「建設労働者」のように言い換えるようになっていますが、「炭坑夫」も失礼に当たる表現なのでしょうか?確かに言い換えなのか、「炭鉱労働者」という言い方は、耳にしたことがありますが、「炭坑マン」は初耳です。

ほかにも「農夫」は、「農業従事者」ならまだ聞いたことがありますが、「農業マン」はちょっと・・・。



今、職業名に、男女を表す表現は、避けられる傾向にあります。「保母さん」が「保育士」になり、「看護婦さん」が「看護士」、「看護師」になろうという中で、「チェアマン」も、「チェアパーソン」になろうという中での「炭坑マン」。確かにほとんどは男性でしょうけど。中には女性もいらっしゃるんですよね。確か最近、写真集を出された「炭坑ウーマン」も、いらっしゃいましたよね。

そういったことも考え合わせると、「炭坑マン」は、どうなんでしょうかねえ。

2001/11/30

(追記)

昨日(12月6日)の日経新聞・夕刊に、「看護婦は看護師に」という見出しで、名称統一の改正法が6日の衆議院本会議で成立するという記事が出ていました。それによると、

看護婦(士)→看護師

保健婦(士)→保健師

助産婦→助産師

准看護婦(士)→准看護師


となるそうです。法案の名前は「改正保健婦助産婦看護婦法案」。法律の名前は、「保健師助産師看護師法」。長いなあ。というより、そのままやんか。

記事によると、このうち女性にしか資格取得が認められていない助産婦も名称変更の対象にしたことから、現場の助産婦ら女性グループから「男性導入への布石だ」と反発が出ていたそうです。看護婦は1968年から、保健婦は1993年から男性も資格が取れるようになって、看護士や保健士などの呼び名が登場していました。日本看護協会などの業界団体が「専門職の名称が性別で違うのはおかしい」と、与党に議員立法による名称変更を働きかけていたそうです。助産婦さんが「男」だったら、妊婦もだんなもイヤだろうなあ。

アナウンサーは男女で職名は同じだけど、「女子アナ」とは言われても、「男子アナ」なんて、まぁ言われないぞ。興味もないけど。

法律上は統一しても、現場はどうなんでしょうね、とも思うのですが、「保母(さん)」の場合は、現場では消えているようですね。少なくとも私の息子が通っている保育所では「保母」という言葉は、ほぼ・・・いえ、一切、聞かれなくなっており、全部「保育士」です。これもそのうち「保育師」になるんでしょうか。「体育教師」と字面が似てますね。

「師」と言えば、ここ数ヶ月、一番有名な「師」は、

「オマル師」

でしょう。 「オマル師」と言えば、昨日、京阪・枚方市駅のホームでの出来事。「オマル師」という大きな活字が躍っている夕刊紙が並んだ売店に近づいて行った50がらみの男性が、売店のおばちゃんに向かって歩きながら、大きな声で、

「オマル師、おまるに落ちた・・・なーんてな。」

と言いながら、その夕刊紙を買っていました・・・。

平和なニッポンの師走の風景でした。

2001/12/7


◆ことばの話492「だちかんね」

いつごろ聞いた言葉なのか、誰が言ったのか、定かではないのですが、ずーときになっていた言葉がありました。



だちかんね



です。それが、阪神電車の中で本を読んでいるときに、ふと、ひらめきました。



これは、"らち、あかんね"が訛ったのではないか?



間違いありません、きっとそうです。

ちなみに「埒(らち)があかない」「埒」とは一体、何なのでしょうか?さっそく手持ちの電子辞書(広辞苑)を引いてみました。

1.馬場の周囲の柵。

2.(ラッシ(臈次)の転か)物事の区切り。「不埒・埒外・放埓」


とありました。

そうか、馬場の柵かぁ。それが開かないのじゃ、始まらないな。(何が?)

でも2の「ラッシ(臈次)の転か」のラッシ(臈次)がわからないな。もう一度、電子辞書を引いてみましょう。



「臈次(らっし)」

1.臈(ろう)の次第。法臈(ほうろう)の位次。

2.物事の順序。秩序。(例)日葡辞書「ラッシヲミダス」




順序、秩序のことも言うのですね。

これで一気に解決かな。



そう言えば子供の頃、亡くなった祖母(三重県上野市在住)が口にしていた言葉で、大きくなってから「そうだったのか!」と思った言葉に



どんならんこって



というのがありました。「どんならん」は大阪弁でも使うということを知ったのも後のことですが、「どんならん」=「どうもならない」=「しようがない」という意味ですよね。この言葉の「どん」の音の響きが子供心に強く伝わり、当時流行っていた「ひょっこりひょうたん島」の人気者、「ドン・ガバチョ」の「ドン」の音と一緒なので、そういうイメージの言葉として、心に刻み込まれていました。



そんなことを考えてインターネットを見ていると、福岡大学・情報数学研究室の柴田勝征先生が「言問い亭」の第181号(2000年5月10日号)で、大河ドラマを見ていた奥さんから「"らちない"の"らち"って、どういう意味?」と聞かれて調べた様子が記されていました。馬が生活の中にあった時代には「らち」の意味も周知されていたのでしょうが、馬が人の生活からつながりがなくなってしまった現代においては、意味が分からなくなっていったのでしょうね。まさに「埒外」なわけです。

あ、そういえば来年は「ウマ年」だ。人が馬と関係のあるのは、競馬やってる人か、あとはこの「干支(えと)」ぐらいですかねえ。人馬一体とはなりません。埒のあかない話で・・・。

2001/11/30


◆ことばの話491「横」

先日、「横」という漢字がついた言葉にはあまり良い意味の言葉がない、という話を母から聞きました。

本当にそうなのか?半信半疑で調べてみることにしました。とりあえず思いつく「横」がつく言葉はというと・・・。



横領、横行、横恋慕、横槍、横車、横流し、横断



「横断」は、悪い意味とは思えませんが、それ以外は確かに悪い意味の言葉が多いですね。

逆に、「縦」のついた言葉を考えてみましょうか。



縦割り、銃弾、縦走、縦連、放縦



別に良くも悪くもないですねえ。

「横」に特有の意味があるということなんでしょうか。

漢和辞典を引いてみましょう。たくさん「横」のつく言葉が載ってますね。



横逸、横溢、横議、横逆、横虐、横死、横生、横政、横奪、横道、横波、横叛、横柄、横民、横歴、横放、横暴、専横



うわあ、知らない言葉もあるけど、どれもこれも、悪い意味ばかりだあ!!

一体全体、どうしたことでしょうか、「横」。

もとは「かんぬき」の意味を表し、「かんぬき」は「よこ」になっているから、そこから転じて「よこ」の意味になったということですが、それにしても、悪すぎる。

そういえば「よこしま」という言葉がありますね。

そこから来たのかな、「横」の悪いイメージは。

日本語は従来、「たて書き」が正しく「よこ書き」はなかったですし。右から左への横書きに見えるのも「一行一字の縦書き」だそうですしね。

そんなに「よこ」がキライだったのでしょうか、日本人は。

「横浜」も「横田」も別に悪くないんですけど。



「横のものをたてにもしない」



ということわざもあります。「横」の状態は「有るべき姿ではない」、それを本来あるべき「たて」にしないのは良くない、ということなのでしょうか。

「岩波ことわざ辞典」には、



「その辺にころがっている棒をすみの方に立てかけることも億劫がるようなことについていう。異表現の"縦を横"の形が江戸時代中期から用いられ、幕末頃には見出し形もいわれるようになった。」



とありました。同僚のHアナによると、



「江戸っ子はタテを喜びそうな感じがしますね、大阪はヨコも好きそうですけど。」



とのことでした。

それはさておき、やはり「横より縦」を重んじる考え方は、「ものの道理」「物事の流れ」を重んじるという考え方は、「上から下に縦に流れる」もの。そのあたりから考えると、中国から儒教精神と共にやってきたのではないでしょうか?

どちらかというと、「まめ」といわれる私ですが、本当は「横のものを縦にもしない」性格ですので、この話はこの辺でやめときます。

2001/12/6


(追記)

上に書いた、「横より縦を重んじる考え方」は「中国から儒教精神とともにやってきたのではない か?」という話ですが、今日、やはり「そうではないか?」「中国が縦社会でそれを日本も輸入した からではないか?」と思わせる書物に出会いました。
『養老孟司 ガクモンの壁』(日経ビジネス人文庫、2003,8,1)という本で、これは『日経サイエ ンス』に連載されていた養老孟司氏の対談をまとめた本で、1999年に単行本で出た『養老孟司 学問の格闘』を改題したものだそうです。養老孟司さんと言えば『バカの壁』が110万部を超える ベストセラーですから、それにあやかって「柳の下のドジョウ」ということで、タイトルも「壁」を取り 入れたのでしょう。しかし対談相手は一流の若手研究家ばかりですから、さすがに「バカの壁」の 「バカ」は使えなかったと見えます。
話が「横」にそれました。
この本の中で、言語人類学者で慶応義塾大学助教授の井上京子さん(1963年生まれ)との対 談を読んでいると、方角の感覚の国による違いなどに触れています。左右感覚の国(地域)と「東 西南北感覚」の国がある
というのです。つまり空間の把握の仕方が国によって、あるいは地域に よって違うと。それを読んでいて思ったのは、
「タテ・ヨコというのも空間把握の方法である。縦は上下、横は左右。この感覚の内、上下、つまり タテを重んじる感覚を持っていたとすれば、左右=ヨコの感覚は下位に位置するのではない か? 」
ということで、それとともに、
「縦社会のヒエラルキーというのは、日本の場合中国から入ってきたであろうから、『横』に否定 的な感覚は中国からの輸入ではないか?」
という所に思いが至ったわけです。
どないでっしゃろか?


2003/9/1