◆ことばの話440「二つに分ける思想2」

「平成ことば事情314」で書いた「二つに分ける思想」の続きです。

2001年9月15日に出た新潮選書「日本・日本語・日本人」という本を読みました。これは大野晋・森本哲郎・鈴木孝夫という日本語に造詣の深い知識人3人が、去年対談をした時の様子を、収められたものです。ちなみに3人とも大正生まれ。大野さんが話し出すと鈴木さんが突っ走って、森本さんが手綱を引き締めるといった感じで、なかなか軽妙なというかおもしろいやりとりもあって楽しい本です。

その3人が対談とは別に、書き下ろしで書いた論文も収められていて、その中の大野晋さんが書いた「日本人は日本語はどう作り上げてきたか」という論文の中に「科学」について記されたものがあります。(55〜56ページ)



「科学」を英語でいえばscienceである。scienceの語源はKleinの"Comprehensive Etymological English Dictionary"(1970)によれば" to separate one thing from anather, to distinguish"であるという。溯るとscindereであり、それは"to cut , split , cleave"と関係があるという。つまり「一つのことを他と区別する、区分する」ことであり、「切って分ける」ことに由来するらしい。ということは、「科学」は物を観察して区別し、区分することから始まるらしい。そうだとすれば日本に科学が発達しなかったのは、日本人が物事を見て分析し、さらに分析を重ねていく習慣を持たなかった、そういう考え方をしなかった結果である。



と書いています。名古屋大学の野依良治(のより・りょうじ)教授が、2001年のノーベル化学賞を受賞したニュースを聞いたあとだけに、後半の「日本に科学が発達しなかったのは・・・・」の部分は、(「科学」と「化学」の違いはあるにせよ)「そんなことないやろ」と突っ込みたくなりますが、前半部分に注目です。

科学というものは物を観察して区別し区分するところから始まる、ということです。「二つに分ける思想」というのは、ある物事を「分ける」と言う意味では「科学的」なのですが、「二つに分ける」段階で思考が停止してしまってはいないでしょうか。そういう意味では、「一番程度の低い科学」「科学の入口で止まってしまってる」状態ではないでしょうか。その「二つ」をさらに細かく分けて区分していって、分子・原子・素粒子の段階まで分けていく姿勢こそ、「科学的」だと思うのですが。

二つに分けることで、一応「科学的」なポーズをみせているだけのような気がします。

2001/10/15

(追記)

1978年の4月に中央公論から出された「日本人の内と外」という本が、中央公論新社から文庫版でこの4月(2001年)に出ました。それを今読んでいます。司馬遼太郎さんと山崎正和さんの対談集です。その中で山崎さんのコメントが、今から20数年前のものですが、同時多発テロが起きた21世紀の現在でも十分に興味深いので、少し長くなりますが、書き写します。



ベトナム戦争というのは日本の大東亜戦争とは違って、負けたということについてすら国民の見解の統一ができない事件なんですね。勝てなかった戦争―それだけなんです。ましてやそれが正義の戦いか、不正義の戦いかということになれば、相当のインテリでも意見の分かれるところです。それ以来、たぶん非常に多くのアメリカ人が新しいことを学んだわけです。それは善と悪はお互いに入れ籠(こ)になっていて、そう簡単に切り離せるものではないということです。これは、アメリカの歴史の中では革命的なことだと思うんです。彼らの意識としてはつねに、善は自分のほうにあって悪は向こうにある。その向こうにある悪が「インディアン」に始まって共産主義にいたるまで、目に見えるかたちであったわけですからね。(下線は道浦による)



これは、ベトナム戦争を機に、まさにここで述べている「二つに分ける思想」に対して、アメリカ人も疑いの目を向け始めたということではないでしょうか。

ブッシュ大統領の言う「新しい戦争」というのは、「善と悪」の二つに分けられない戦争という意味もあるのかもしれません。

2001/10/19

(追記2)

2001年11月7日の読売新聞夕刊の文化欄に、佐倉統(おさむ)東京大学助教授が、

「是非論より熟慮の言葉を〜社会問題、簡単に割り切れぬ〜メディアの扇情的なコメント」

という文章を掲載していました。それによると、



テレビも政局もとりあえずのキーワードは「わかりやすさ」。分かりやすく伝えることは大切だが、難しい。・・・また構造改革か景気回復か?遺伝子組み換え食品は安全か危険か?ゆとり教育は是か非か?・・・もう少し余裕をもって、シロクロつけずに議論することも重要ではないか。忙しい時代だからこそ、ゆったりと議論することも必要なのだと思う。ほとんどの問題は、そう簡単には割り切れないほど複雑きわまりないのだから。



とありました。まさに我が意を得たり!という感じです。

2001/11/9


◆ことばの話439「アルジャジーラ」

空爆が続くアフガニスタン。その国内でのウサマ・ビン・ラディンやアルカイダの様子を伝えてくる、唯一のテレビ局は、今回一躍有名になった、カタールの衛星テレビ局「アルジャジーラ」。「中東のCNN」という異名もあるそうです。CNNは10年前の湾岸戦争の時にイラクからの映像を伝えて、一躍全世界にその名を馳せましたが、「戦争報道」というのは報道の一つの分野としてしっかりあるのでしょう。ベトナム戦争もそうだったんですよね。もちろん当時は衛星テレビはなかったと思いますが。

さて、その「アルジャジーラ」ですが、当然の事ながらこれもまた、日頃あまり我々日本人が目にすることの少ないイスラムの名前です。「ウサマ・ビンラディン」か「オサマ・ビンラーディン」か?、また「タリバン」か「タリバーン」か?といったのと同じ問題がここにも起こっているのです。新聞各社の表記は次の通り。(10月12日朝刊。朝日、産経は10月10日夕刊)

(読売)アル・ジャジーラ

(朝日)アルジャジーラ

(毎日)アルジャジーラ

(産経)アル・ジャジーラ

(日経)アルジャズィーラ


つまり、表記上は「アル・ジャジーラ」「アルジャジーラ」「アルジャズィーラ」の3種類、読みは「アルジャジーラ」と「アルジャズィーラ」の2種類があります。このテレビ局のことが報じられた当初(アメリカの空爆が開始された直後)は「アルジェジーラ」というのもありましたが、空爆3日目ぐらいから見かけなくなりました。

「アルジャズィーラ」という表記をしている日経新聞は、「ゴジラ」も「ゴズィラ」(あるいはゴズィーラ)という表記をするんでしょうかね。実際の発音にはこちらの方が近いのでしょう。

そしてもう一つ、ウサマ・ビンラディン氏が率いるイスラム原理主義のテロ組織、「アルカイダ」の名前の表記も、各社バラバラです。



(読売)アル・カーイダ

(朝日)アルカイダ

(毎日)アルカイダ

(産経)アルカーイダ

(日経)アルカイダ




「アルジャジーラ」と「アルカイダ」を見比べると、読売は「アル」は冠詞として意識して、真ん中に「・」を置いているようで「アル」。

また長音符号「−」は、アクセントのあるところに来ているような気がします。(必ずしもそうではないですが。)

私たち日本人にとって、ふだんあまり身近ではないイスラムの世界だけに、一つの統一された表記方法が出て来ないのでしょうね。これは欧米の人たちにとっても、同じことのようです。OSAMAとUSAMAがあるように。

2001/10/15


◆ことばの話438「炭そ菌」

アメリカに対するテロの第2弾か!?とも言われている、郵便での「炭そ菌」のばらまき事件。10月15日現在で、フロリダで8人、ニューヨークで5人の感染者が出て、それ以外にもネバダ州でも菌が入った郵便物が見つかっています。(その後の検査で、ネバダ州の郵便物には炭そ菌が入っていないことがわかりましたが。10月17日現在。)

その「炭そ菌」の新聞での表記に注目しました。

本来、「炭そ菌」の「そ」は、「疽」=病だれの中に「且」と書きます。「壊疽(えそ)」の「疽(そ)」です。しかしこの「疽」が常用漢字外の漢字、いわゆる「表外字」であるため、新聞各社は「炭そ菌」と「そ」をひらがなで書くか、「炭疽菌」にルビを振るか、しています。各社の状況を10月12日の朝刊(載っていなかったものは10月10日の夕刊)で調べてみると、

  (見出し) (本文)
(読売) 炭疽菌 炭疽菌("炭疽"の上に"たんそ"とルビ)
(朝日) 炭そ菌 炭そ菌
(毎日) 炭そ菌 炭そ菌
(産経) 炭疽菌 炭疽(そ)菌
(日経) 炭疽菌 炭疽(たんそ)菌

という具合に、各社バラバラです。ルビの振り方も違います。朝日と毎日が「疽」という漢字を使っていませんが、他社は「疽」を使って、ルビで対処しています。

しかし「疽」をひらがなにしてしまうと、「炭そ菌」を「炭素菌」だと思う人も多いと思います。誤解を避けるために、「炭疽菌」という表記をした上でルビを振る方法がよいのではないかなあと考えるのですが。しかし、わが読売テレビも、

「炭そ菌」

という混ぜ書きを行っています。

いっとき(10月12日)、「ズームインSUPER」で、「炭疽(そ)菌」(「疽」の上に「そ」のルビ)という表記をしましたが、今日(10月15日)は「炭そ菌」に戻っていました。今後どうなるのか、注目です。もちろん、こんなニュースが出なくなるのが一番よいのですが・・・。(2001、10、15)
2001/10/15

(追記)

10月16日のお昼のニュースで、NHK、フジテレビとテレビ朝日は「炭そ菌」でした。TBSの福留さんがやっているお昼のワイドショーは「炭疽菌」と漢字を使い、その漢字の上に「たんそきん」とルビを振っていました。右上にずっと出ている「サイドスーパー」はルビなしの「炭疽菌」でした。

2001/10/16


◆ことばの話437「この頃」

「澄むと濁るで大違い」シリーズ第2弾(?)(「平成ことば事情435」参照)



「この頃、調子が悪いんだよなあ」



という場合の「この頃」は必ず「このごろ」と濁ります。それに対して、



「この頃の日本は、まだ高度経済成長を続けていた」



という場合は、濁らずに「このころ」です。

つまり、澄むと濁るで、意味が変ってしまうのです。これは一体どうしたことでしょうか?

例えば「着替える」は、「きかえる」と言っても「きがえる」と濁っても意味は変らないのに。

二つの言葉が一つにくっついた複合語が連濁を起こすのは、その複合語が完全に「一つの言葉になった証」です。だから「このごろ」は、一つの言葉として確立している証拠と言えます。それに対して、濁っていない複合語は、それぞれの単語の意味が自立していると考えられます。だから「このころ」は、「この」という指示語と「ころ」がそれぞれ自立しています。特に「この」という指示語が過去の一時期(つまり、今から見ると「その」になると思うのだけれど)を指しています。

それに対して「このごろ」というふうに一つの言葉になった「この」は、現在・近過去(=最近)を示しているという違いがあるのではないでしょうか。

ちょっと、そういうふうに、考えてみました。

なお、「濁る、濁らない」に関係した調査研究について、NHK放送文化研究所の塩田雄大さんが、「放送研究と調査」という雑誌の2001年9月号に「カタクルシイ女・カタグルシイ男〜平成13年度ことばのゆれ全国調査から〜」と題して書いてらっしゃいます。

その塩田さんに「この頃」についてメールで聞いたところ、

「"このごろ"と"このころ"ではアクセントも違いますよね。"このごろ"は平板アクセントですし、"このころ"は中高アクセントですから、やはり複合の度合いが違うのではないですか。」

というお話でした。

2001/10/17


◆ことばの話436「なにげに」

若者ことばでよく問題になるものに「なにげに」というのがあります。意味は「なにげなく」だと思います。同じようなものには「さりげに」があり、意味は「さりげなく」。「なにげに」も「さりげなく」の意味で使われることもあるようですが。

さて、この「○○げに」という形のことばは、他にどんなものがあるでしょうか? 思いつくものをあげてみると、

「楽しげに」

「危なげに」

「寂しげに」

「よさげに」


このうち「よさげに」は若者ことばの一種でしょう。この4つについては、「げ」の代わりに「そう」を入れても、同じ意味のことばが成り立ちます。つまり、

「楽しそうに」

「危なそうに」

「寂しそうに」

「よさそうに」


となります。この「そう」あるいは「げ」は、「端(はた)から見てそのように見える」というような意味を持っています。また「そうに」の前に当たる部分(「楽し」「危な」「寂し」「よさ」)が、「その様子がどんなであるか」を規定しています。

ところが、「なにげに」「さりげに」は、「げ」の代わりに「そう」を入れると、

そうに」

「さりそうに」

となり、ことばとして成立しません。そもそも「なにげに」「さりげに」は、

「なにげなく

「さりげなく


の「なく」の部分が「に」に変わったものだからです。そして「げなく」の前にあたる部分(「なに」「さり」)は、「その様子がどんなであるか」を規定していません。

若者ことばの「なにげに」「さりげに」は、「げに」が「げなく」の省略形と考えられますが、そのような用法(「げなく」の省略の形)がこれまでになかったために、おもに年配者から「好ましくない」と言われるのでしょう。

しかし、同じ若者ことばの仲間で、同じように使われている「よさげに」は、これまで使われている「楽しげに」「寂しげに」「危なげに」と同じように使うことが出来るという点で、「なにげに」「さりげに」とは一線を画するのではないでしょうか?と「さりげに」書いてみました。そう、感じるんだよね、おぼろげに。

あっ、そうだ「おぼろげに」はどうだろうか?

「おぼろそうに」とは言わないぞ。この手のことで困った時には「逆引き広辞苑」です。「げに」を見るには、「にげ」を引いてみることにしよう・・・だめだ、「夜逃げ」とか「轢き逃げ」とか関係ないものが出てくる。おお、この「げ」は漢字の「気」であった。・・・ありました、ありました。



「危なげ」

「をかしげ」

「恐れ気」

「思た気」

「健気(けなげ)」

「神気(かみげ)」

「芝居気」

「生気(せいげ)」

「知り気」

「得意気」

「無気気(なげげ)」

「生防がし気(なまふせがしげ)」

「人気(ひとげ)」

「忠実(まめ)し気」

「雪気」

「湯気(←そうだったのか!!)」

「由有気(わけありげ)」

「弱気」

「霊(りょう)気」

「若気」

「悪気」




このほか「しなげ」(〜げ無し)というのも引いてみると、



「頼もしげ無し」

「安げ無し」

「利気(とげ)無し」

「物気(ものげ)無し」

「親げ無し」


といったことばが出てきました。

このうち「げ」の前が形容詞・形容動詞(的)なのは、



「危なげ」

「をかしげ」

「得意気」

「無気気」(?)

「生防がし気」(?)

「忠実し気」

「由有気」

「弱気」

「若気」

「悪気」




といったところ。原則、「げ」は「そう」に置き換えられ"そう"です。(「置き換えられ"げ"」とはなりません。あしからず。)

このあたりにポイントがあるような「気」(き)がしますが、いかが?

2001/10/12

(追記)

見坊豪紀『辞書をつくる』(玉川選書、1976)の168ページに、
「だるげ」
という言葉が採録されていました。
『「ジュンさんかね?」「はい」だるげな声がそういう。「小倉だよ?」』
(「夕刊フジ昭和46年12月15日11ページ 川上宗薫「新銀座八丁」第168回」)
この「げ」は「そう」に当たる「げ」ですね。つまり「だるそうな声」と言うべきところが「だるげな声」となっていると。それが昭和46年(1971年)に、もうあったのですね。相当早いですねえ。

2006/9/11

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