◆ことばの話395「敗れ続けてきました」

カナダで行われている世界陸上。その女子百メートルで、シドニー五輪の金メダリストでここ4年間無敵の女王、アメリカのマリオン・ジョーンズ選手が、ウクライナのピンツセビッチ選手に敗れるというニュースがありました。

それを実況したアナウンサー(TBS)が、ピンツセビッチ選手について、



「この4年間、マリオン・ジョーンズの前に、敗れ続けてきました。」



と言ったのですが、この言葉に「おやっ?」と思いました。

「敗れ続ける」

何か違和感があります。

「負け続ける」「負け続けてきました」

なら、納得できます。この差は何でしょうか?



例えば、自分が負けた時に、心の中でつぶやく言葉は、

「負けた・・・。」

であって、

「敗れた・・・。」

ではありえません。ここから考えると、「負ける」は、その勝負の一方の当事者である敗者の状態を指し、「敗れる」は、その勝負の当事者ではない第三者から見た勝負の結果の状態を指す。だから勝負がついた時に、敗者の状態を「敗れました」とは言えます。



また、「続ける」という言葉は、自然と「続く」のではなく、その行為を継続する人の「そうありたい」という「意志・気持ち・希望」が関わってきます。ピンツセビッチ選手は「自分の意志・希望」で「敗れる」状態を続けてきた訳では、勿論ありません。自分の意志・希望に反して「敗れる」という状態が「続いて」きたのです。その点でまず「破れ続けてきました。」という表現がなんか受け入れられないのではないでしょうか。



しかしそうすると、「負け続けてきました」も、「意志・希望ではない」(誰も負けようと思って勝負に臨んではいない。もし負けようと思っているのであるなら、それは八百長だから。)という意味では、やはり「受け入れられないはず」ですが、こちらはOKです。そうすると、また別に視点からの違いがありそうです。



「負ける」と「敗れる」の違いは何でしょうか?「敗れる」の方が、文語っぽく聞こえます。「負ける」は明らかに口語的で軽い感じ。「敗れる」の方が重みがあります。スポーツ・アナウンサーとしては、美辞麗句というか少しでも重みのある言葉で、この状況を実況して語りたい、という気持ちがあるのでしょう。口語的な「負ける」よりも、文語調の「敗れる」を使用した心理的背景には、そういったこともあるのでしょう。



また「敗れる」という言葉は、AとBが戦うことで出来た均衡状態が「やぶれる(破れる)」ことで勝敗の決着がつくという感じもします。その均衡状態は、どちらか一方(個人)によって保たれていたのではなく、またそれが崩れる状態も、両者があって初めて成り立つものですから、やはり「敗れる」は、両者の関係にのみ使い得るのではないでしょうか?



同僚のSアナウンサーに「負ける」と「敗れる」の差異について聞くと、

「"敗れる"はチーム競技の場合、"負ける"は個人競技の場合という気がしますね。」

ということでした。

これも、その「敗れる」という状態が、第三者から見た勝負の結果という感じがするのに対して、「負ける」は、より当事者っぽいというところに通じるのではないでしょうか。チーム競技は「個人」ではなく、勝ちも負けも「全体責任」「連帯責任」という感じですから。



次に、なぜ「負ける」「敗れる」が混同されるのか?

それは、その反対語が「勝つ」しか、ないからではないでしょうか。

「かちまけ」を漢字にすると、「勝負」「勝敗」の2種類があり、黒星を表すのには「負」「敗」の2種類がありますが、白星を表しているのは「勝」の1種類。そこから、「まける」「やぶれる」は、全く同じ意味だと考えて、「続ける」をくっつけた言い方が出てきたのではないでしょうか?



同僚のHアナウンサーは、

「"敗れる"はもう後がない、その時だけ。敗れたら、もう二度と挑戦できないもの。だから"敗れ続ける"のはゾンビみたいなものじゃないですか?プロ野球のようにリーグ戦の黒星は"負け"で"負け続ける"で、高校野球のようなトーナメントの場合は"負ける"より"敗れる"のほうがふさわしいかな。でも"敗れ続け"はしないですね。」

という、新しい見方を提案してくれました。



完全に分析できた訳ではありませんが、とりあえず、問題点は洗い出せたのではないでしょうか。

2001/8/9

(追記)

ボストンのIさんから、またご指摘を頂きました。
"「負ける」「敗れる」の反対語は「勝つ」しかないので、二つの言葉が混同されるのではないか"と私が書いたこと関して、"「敗れる」の反対語は「成(る)」である"。この二つを組み合わせた「成敗」、「せいはい」と濁らずに読むと「成功と失敗のこと」を意味し、「せいばい」と濁って読むと「懲らしめること」になるということです。

2001/8/15

(追記2)

2003年10月7日、大リーグ地区プレーオフの、レッドソックス対アスレチックスの試合の9回裏、NHK衛星第一放送で松本一路アナウンサーが、
「負け続けてきました。」
と言っていました。それほど違和感はなかったのですが。どうでしょうか。

2003/10/9


◆ことばの話394「猛暑と酷暑」

平成6年(1994年)以来の7年ぶりの猛暑となっていますが、今日(8月7日)は「立秋」。暦の上では今日から"秋"です。そういえば、今日なんかは、ちょっとしのぎやすかったような気がしますが。残暑お見舞い申し上げます。暑さが厳しい"ザンショ"というギャグが、森アナウンサーの口から聞かれそうな季節です。

さて。

とても暑い日のことを「猛暑」と言いますが、それを越えるような暑い日を「酷暑」と言っていますね。この「猛暑」と「酷暑」、基準はどうなっているのでしょうか?

日経新聞の記事によると、「最高気温が35度以上の日を、ここ数年"酷暑日"と呼ぶようになってきた」ということです。

最高気温が25度以上の日を「夏日」、30度以上の日を「真夏日」というのは、以前から使われてきましたが、その上の35度以上が「酷暑日」ということのようです。そうすると「猛暑」の位置づけはどうなるのかな?

お天気キャスターの小谷さんに聞いてみました。すると、

「確かに数年前から、最高気温が35度を越えると"酷暑"と表現するようになっています。"猛暑"は、そういった暑い日が何日か続いた状態を指して言い、例えば"4日連続で最高気温が35度を越える酷暑となった時"などは"連日の猛暑で・・・"というふうに使いますね。」

ということでした。

ふーむ、わかったようなわからないような。なんせ、暑さ頭がボーッとしていますから・・・。

2001/8/8


◆ことばの話393「人間性」

「そんなことをすると、人間性を疑われるよ。」

なんて、よく言われますよね。

えっ?言われない?そうですか、よくは、言われませんか。・・・私は・・・やめておきましょう。

でも、そんなあなたでも、耳にしたことはありますよね。この場合に使われている「人間性」というのは、善か悪かで考えると(おお、"二つに分ける思想"だ!)"善"ですよね。

ということは、基本的に人間というものは"善"の存在であるのでしょうか?

つまり、一般的には、「性善説」がベースにあると考えていいのでしょうか?



例によって国語辞典を引いてみましょう。「新明解国語辞典」によると、

「人間的」・・・人間らしい性質・感情のある様子

これは、善・悪、両方の可能性ありますね。

「人間味」・・・人間らしい心の暖かみ。人情(味)。

「人間性」は載っていませんでした。



続いて「広辞苑」

「人間的」・・・人間に関するさま。動物的・機械的などに対して、人の行為・感情の人間らしいさま。特に、思いやりがあることなどにいう。

「人間味」・・・人間らしいあじわい。人間としての情味。


これはやや、"善"に近いかな。

「人間性」・・・人間としての本性。人間らしさ。



「人間らしさ」というのも、この場合、曖昧な表現ですね、

たまには違う辞書で「日本語大辞典」(講談社)

「人間的」・・・ 人間らしいさま。行為・感情に人間性が現れているさま。人道的。道義的。ヒューマニスティック。
「人間味」・・・ 人間として自然に備わった、あたたかい情合い。人情。
「人間性」・・・ 【1】人間としての本性。人間らしさ。人間に特有の本性。human nature
  【2】人間だけがもつ当為・理想。ヒューマニズム。humanism

引いてみるものだな。この辞書が、一番、私が求めていた答えに近いものでした。

「日本語大辞典」は、間違いなく「人間=性善説」に立っています。しかも、「人間性」の意味のところには英語が載っているところから見て、「人間性」は外来語である可能性があります。つまり、明治以降に入ってきた外国語の「翻訳語」として登場したのではないでしょうか?

そうだとすると、「humanism」の考え方・哲学(これも輸入語だ)は「性善説」に基づいたもので、おそらく、ギリシャ哲学の流れを汲んでいるのでしょう。それを言葉ごと輸入したので、基本的に「人間性」「人間味」などの言葉は「性善説」に立っていると考えられます。

ただ、その「翻訳語」の「人間性」「人間的」が日本語として定着したので、元々持っている「性善説」以外の「性悪説」の意味を、この言葉に持たせる可能性も出てきているのではないでしょうか。

「性悪説」は確か、中国の筍子(じゅんし)だったと思いますが。「性善説」は中国では孟子。「人間の本性は善であり、仁・義を先天的に具有しており、それに基づく道徳による政治を主張」したものでした。

「humanism」も引いてみましょう。「広辞苑」には、いっぱい載っています。



【1】一般に人間的(ヒューマン)なことを尊重する思想。中世末期において人間の解放はギリシア・ラテンの古典に溯ることにより遂行されたので、ヒューマニズムは人文主義、古典研究として始まった。歴史上主要な形態は次のもの。

a)中世的な宗教世界観からの開放を求めるルネサンス期の人文主義。

b) 宗教からの徹底的解放を求め、普遍的人間性を認めた,17〜18世紀

 イギリス・フランスの市民的ヒューマニズム。

c)古典重視、人間性の調和的発展、人間の自己救済力を説く18〜19世紀のドイツの新ヒューマニズム。

c) 資本主義によって阻害された人間に人間性回復を求める,社会主義的 ヒュー マニズム。

e)東西文化の比較研究に基づく20世紀の補完的ヒューマニズム。

f)人間を真理や価値の基礎に据える実存主義的ヒューマニズム。

【2】人道主義。




ふーむ、ヒューマニズムにも、色々種類がありますね。この中で言うと、b、c、e、fあたりが関係してそうですね。特にeの「東西文化の比較研究」あたりで、中国の思想とヨーロッパの思想が混在した可能性もありそうです。

また、【2】の人道主義も、性善説と関係ありそうです。「日本語大辞典」で「ヒューマニズム」を引くと「人道主義を見よ」となっているので、見てみました。



「人道主義」・・・人権・人格を平等にみとめ、同上・献身をもって愛し合うことを目標とする考え。人道の理想を人間愛によって実現しようという立場。ヒューマニズム。



とありました。「人道」=「人の道」とすると、道徳くさくて、なんかヨーロッパの香りはしませんが、「人道主義」とすると、なんとなく「そうなのかぁ」という感じです。



ま、あるべき姿=理想はさておき、いろんな人間がいるのが「この世」なんですけどね。そういった意味では「性善説」と「性悪説」の中間に「現実主義的・現世人間説」なんてのがあってもよさそうなんだけど、あくまで「理想」について机上の論理を戦わせるのが、

当時の学者の世界で、現状を調べて分析するのは、きわめて現代的な考え方なのではないでしょうか。

2001/8/3


◆ことばの話392「半袖シャツ」

8月1日。暑いさなかに、出張で東京に行きました。ちょうどお昼休みぐらいに、新幹線は東京駅に着きました。東京駅から台東区〜葛飾区方面に向かってタクシーに乗りながら、窓の外の風景を眺めていると、ふとあることに気づきました。



「東京は、半袖のYシャツを着ているビジネスマンが、少ないのではないか?」



なんとなく、少ないように感じたのです。むちゃくちゃ暑い中、昼食に向かう東京のビジネスマンたちは、上着は着ていません。長袖のYシャツの袖をヒジまでまくっている人はいますが、もともと半袖のYシャツを着ている人が、大阪に比べて、あまり見当たらないのです。そこで、タクシーの中から、半袖のYシャツを着てるビジネスマンの数を数えてみました。結果は、



東京=108人中26人(24.1%)



このデータをもとに、大阪に帰ってから、会社の近くの大阪ビジネスパーク(OBP)で、同じ調査をしてみました。その結果は、



大阪=115人中66人(57.3%)



やっぱり!大阪に比べて、東京は半袖Yシャツを着ているビジネスマンが半分以下だということが分かりました。理由として考えられるのは・・・



【1】大阪の方が、東京より暑い

【2】東京の方が、スーツは本来「長袖」、半袖は「略式」という規範意識が強い

【3】年齢差?年配者の方が半袖を着る?



といったようなことです。

そこで今度は、Yシャツを売っているデパートで、その売れ行き具合に関して聞いてみました。すると今度は、意外な結果が出たのです。

*阪急百貨店(大阪・梅田)
  長袖 半袖
5月= 86 14
6月= 65 35
7月= 70 30
(通常品) 60 40(バーゲン品)
  65 35(トータル)
       



〜長袖でも、肌がひんやりするようなクールタイプ、吸汗・速乾タイプが今年の売れ線なのでこういう結果ではないか。

よくもこんなに詳しく調べて下さいました、阪急百貨店・広報の木下さん。どうもありがとうございました。

一方、東京のデパートはというと・・



*三越百貨店(東京・銀座)
  長袖 半袖
7、8月= 60 40(広報の人の感覚的に)

その他の10ヶ月は、圧倒的に長袖が売れる。



〜【1】長袖シャツを着ないと、上着(ジャケット)の袖の部分が傷む

【2】上着の袖から、長袖Yシャツの袖がのぞく形が、ドレスアップした正式の形であり、半袖Yシャツはあくまで略式・着くずしという意識がある。




ということで、今年の夏は、大阪の方が長袖シャツがよく売れ、東京の方が半袖シャツがよく売れているという結果が出たのです。

東京の三越百貨店の広報の人は、

「でも半袖シャツは、きっと百貨店よりもスーパーなんかでよく売れているんじゃないですかね。おそらくスーパーでは、7:3で半袖がよく売れているんじゃないですか?」と話していました。



もちろん、今年買ったYシャツばかりを着る訳ではありませんから、売れたシャツと着ているシャツの間にタイム・ラグが出ることは十分に考えられますが、けど、なんか不思議な結果になりました。

あなたは、長袖シャツ派?それとも半袖シャツ派?

(今年から半袖シャツ派に寝返った道浦でした。)



この文章を読んだ同僚のHアナウンサーは、「僕も今年から半袖派になりましたよ」とのこと。Hアナウンサーといえば、入社以来、彼が昼食を取っている姿を誰も見たことがないというくらいの吝嗇・・いやいや倹約家で有名です。

なぜ「半袖派」になったのか?理由を聞くと、

「ユニクロのせいです。半袖の方が長袖より安いんですよ。それに、もともとあの値段だから、もう着たいだけ思いっきり着られるし・・・。」

今までは、着たいだけ着られなかったのか・・・ウッウッ・・・なんて悲しい・・・。

2001/8/9
(追記)

1961年(昭和36年)といえば、私が生まれた年。その年の夏帝人が、「ポリエステル繊維の半袖シャツ」を、
「ホンコンシャツ」
の名前で売り出したのだそうです。名付け親はデザイナーの石津謙介さん。
「ホンコンシャツ」、耳にしたことはありますが最近はあまり聞かないなあ。と言うより、つまり1961年に「ホンコンシャツ」が出てくるまでは「半袖シャツ」ってなかったのかなあ。背広(スーツ)を着る時のドレスコードは、やはり長袖でしょうからね。勉強になります。
2007/2/16


◆ことばの話391「浪速のマグワイア」

「浪速のマグワイア」と言えば、パ・リーグの首位を行く近鉄バファローズの中村紀洋選手。先日のオールスター戦でも、3試合で3本のホームランを放ち、その怪力振りを発揮したのは記憶に新しいところです。

その第2戦のことを報じたスポーツニュースで、日本テレビのSアナが、



"「浪速(なにわ)のマグワイア」を「ローソクのマグワイア」と読んだ"



と、視聴者の方から苦情が来ました。

実際に視聴者の指摘通りだったのですが、日本テレビのアナウンス部には、難しい読みの漢字にはふりがなを振った表がはってあったはずですが、「浪速」(なにわ)は簡単なので、そこには書いていなかったのでしょうね。

昔、「大阪府立大学」は「浪速大学」と言ったそうで、その時代「浪速大学」を音読み・略称で「ロウソク大学」→「ロー大」と言ったといいます。だから「浪速」を「ローソク」と読む可能性がないとは言いませんが・・・・ないですよね。

「浪速」は「浪花」とも書きます。「浪花節」はこちら。これも音読みしてしまうと、「ローカせつ」「ローカぶし」。「カツオブシ」のようです。「なにわぶし」ですよ、もちろん。大阪市内には「浪速区」という地名もありますが、これは「ローソクく」ではなく、「ナニワく」です、よろしく。

ただし、「浪速→なみはや」という時もありますので、ご注意下さい。

「なにわ」ともあれ、先輩に聞くか、辞書を引けば良かったのにね。

2001/7/31

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