◆ことばの話380「将棋倒し」

楽しいはずの花火大会で、大変いたましい事故が起きてしまいました。

7月21日(土)、明石市のJR朝霧駅南側にある、大蔵海岸で行われた花火大会を見物に来ていた人が歩道橋の上で将棋倒しとなり、子どもや高齢者10人が死亡、100数十人がケガをしました。亡くなった方、特に小さな子どもさんが多いので、なんとも胸がつまるのですが・・・ご冥福をお祈りします。

さて、言葉の問題です。

事故の直接の原因となった「将棋倒し」、「しょうぎだおし」と「倒し」の部分が「だおし」と濁ります。一方で、「ドミノ倒し」の場合は「たおし」と濁りません。

これは「倒し」の上に来ている言葉「将棋」「ドミノ」の性格の違いでしょう。外来語の「ドミノ」の場合は、まだ「倒し」との複合語としての連結の度合いが弱く感じられるために「たおし」と濁らず、「将棋」の場合は、「将棋倒し」という言葉の結合の度合いが強い、と考えられているのではないでしょうか。

「〜倒し」という言葉は、他に思いつくのは「前倒し(だおし)」くらいかな?例によって「逆引き広辞苑」で「〜倒し」ということばを調べてみました。

「倒し」は省略して、「〜」の部分だけ書きますね。



(たおし)

棒、甑(こしき)、朽木(くちき)、突き、引き、蹴(け)、押し、浴びせ、ドミノ、畜(けもの)、見、極(き)め、送り、寄り・・・・以上14語

(だおし)

風袋、主、前、将棋、節句、天狗、見掛け、後家、仏、横、体(からだ)、根、屏風、仲間、弓、豆、寡(やもめ)、医者、荒(あら)・・・以上19語




ふーむ、「後家倒し」に「寡(やもめ)倒し」。どちらも気になる言葉ですな。両方濁っています。

一応意味を調べておこうか。



「後家倒し」=(後家から脱穀の仕事を奪う意)千把扱(せんばこき)の異称。

「寡倒し」=(寡婦の仕事が失われたのでいう)稲扱器(いねこき)の異称。後家倒し。後家泣かせ




えーっ!そういう意味だったのか・・・えっ?何を考えていたかって?それはご想像にお任せします。しかし、同じ物だったとは・・・。「アナウンサー倒し」なんてのもそのうち現れたりして・・・。



話が脱線しました。

その「将棋倒し」という言葉について、日本将棋連盟からクレームが付いたそうです。

7月26日付・産経新聞朝刊によると、

「今回の事故について新聞・テレビが"将棋倒し"という表現を使っているのは、不適切な使い方で、こういうふうな使い方は今後やめてもらいたい。本来"将棋倒し"は子供向けの遊びで、駒をきれいに並べて最後まで倒した達成感は、子供心を成長させる大切な場面でもある。単に状況だけを見た表現として自己などに引用されるような遊びではない。」

と主張。「将棋の文化的普及と振興を進めている当連盟としては、遺憾」なんだそうです。

気持ちはわかりますが・・・。似たような例で、鍼灸関係の団体が、「悪いことをした人に対して"お灸を据える"という言い方はやめてもらいたい」と今年の春頃、申し入れをしていましたね。また2年ほど前に、狂言関係者が、「自分でわざとやっておきながら、自らが被害に遭ったことを装った事件に対して、"狂言"という言葉を使うのはちょっと・・・」ともらしたことが日本新聞協会の用語懇談会で取り上げられて、それ以来しばらくの間、「狂言」の代わりに「自作自演」という言葉が使われたこともありました。しかし、現在はまた「狂言」が使われているようです。ちなみに「自作自演」業界のシンガーソングライターなどからクレームがあった、という話は、寡聞にして聞きません。



今回の将棋連盟の申し入れに関して、一つだけ「確かにそうだな。」と思ったのは、今回の事故は「倒し」たのではなく、「倒れ」たのですから、もし、「将棋」という表現を使うとしても「将棋倒し」ではなく「将棋倒れ」なのではないでしょうか。結果的には「将棋倒し」で倒れた将棋の駒のような状態に見えたとしても、です。



毎日新聞にも将棋連盟からの「表現自粛要望」の記事は載っていて、こちらにはこの表現に関して識者二人の意見が載っていました。

一人は早稲田大学名誉教授の杉本つとむさん(近世日本語史)で、「将棋倒しという子どもの遊びと、比喩的表現の将棋倒しでは次元が違う。南北朝時代の軍記物語「太平記」にも、武士が次々と倒れる意味で使われている。こういう言葉をいたずらになくしていくと、日本語がやせ細る一方だ。」と、「将棋倒し」を使うことはOKという側の意見。

もう一人は、西日本で一番古い囲碁・将棋メーカー「井上一郎製作所」の井上詩子・営業部長で「将棋倒しというと、"山崩し"を思い浮かべるので、今回のような場合の表現は"ドミノ倒し"の方が適切。将棋文化普及のためには問題があり、避けて欲しい。」と、

「将棋倒し」を使うことに反対の意見という両論併記でした。そしてこの言葉の使用の是非について、読者の意見を募集していました。

井上さんの意見に従って、「ドミノ倒し」あるいは「ドミノ倒れ」としたら、今度はドミノ連盟から苦情が来そうだし・・。なかなか難しいですね。

私、個人的には、「将棋倒し」という言葉を使っても、競技の「将棋」のイメージは、なんら傷つかないとは思うのですけれどもね。

ちなみに「もしかしたら同じ意味かな?」と思った「屏風倒し」は、「あおむけに倒れること」で、意味が違いました。そもそも「屏風」は一枚だけ倒れるのであって、「将棋の駒」や「ドミノ」のように次々と複数が倒れる訳ではないですしね。でも、「将棋の駒」や「ドミノ」は、仰向けに倒れているのかな?それともうつ伏せに倒れているのかな?字が書いてある方が下なら「うつぶせ」、上なら「仰向け」でしょうか?



要は、悪い意味での比喩表現には注意が必要だということでしょうか。でも、しょうがないですよねえ・・・。「ドミノ移植」は、クレームついてないのかな?次々に「倒れる」イメージが「ドミノ倒し」にはあるんですけど。



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将棋連盟からの要望を受けてか、今日(7月26日)の夕刊各紙の見出しに微妙な変化が出ました。

朝日、読売はこの事故の見出しを「花火会場事故」(朝日)「歩道橋事故」(読売)と、朝刊の見出しでは使っていた「将棋倒し」という表現を使わなくなっています。(本文でも。)これに対して、産経、日経はこれまで通り「花火大会将棋倒し」(産経)、

「明石将棋倒し」(日経)と「将棋倒し」を見出しに使っています。毎日は、見出しにはロゴ風にこれまで通り「人災・将棋倒し明石歩道橋圧死事故」と「将棋倒し」を使っていますが、本文中では「兵庫県明石市の花火大会で見物客ら139人が死傷した歩道橋圧死事故で・・・」と「将棋倒し」を使わないなど、微妙な線です。

明日以降の見出しに注目です。

2001/7/26

そして、一夜あけて7月27日(金曜日)。毎日新聞・朝刊の記事から「将棋倒し」の文字が消えました。見出し、本文ともに「歩道橋圧死事故」になりました。

一方、産経新聞の「産経抄」でこの「将棋倒しという表現にクレーム」がついた件に関して取り上げています。それによると、



「将棋連盟の気持ちはよくわかるが、これも日本語表現の豊かさの一つではないだろうか」「こう書かれたといって将棋の普及や振興をさまたげるものではないだろう」

「いつだったか、"おきゅうをすえる"という表現にハリ・キュウ関係者から文句がついたことがある。しかし字引にもちゃんとでている言葉の表現だから、いかんともしがたい。」「そういうことでいうと、花火大会の歩道橋の滞留者数は三千人(主催者発表)で"すし詰め"状態といわれたが、これもすし屋さんから苦情がでるかもしれないのである。」




というふうな論調で、当然、朝刊の記事の見出し・本文にも「将棋倒し」を使っていました。また、日経新聞には、この事故関係の記事が、今朝は見当たりませんでした。

2001/7/27


さらに一夜あけて7月28日(土曜日)、日経新聞に明石の事故の記事が出ていました。

その見出しは、



「発生30分後、警察知る 明石の歩道橋事故対応の遅れ 裏付け」



となっており、見出しから「将棋倒し」の文字は消えていました。しかし本文には、



「兵庫県明石市の花火大会で、多数の観客が死傷した事故で、兵庫県警が歩道橋上で 将棋倒しが発生していることを正確に認知したのは発生から三十分後だったことが二十七日、分かった。」



と「将棋倒し」を使っています。これは現象としての「将棋倒し」で、新聞社側がつける事故の「タイトルとしての将棋倒し」は、やめたということなのでしょうか。

さらに、このあと本文中には、



「担当警察官が同午後九時九分、無線で"歩道橋南詰めで将棋倒し発生"を明石署や現地警備本部に一報した」



と、無線での交信内容としてまた「将棋倒し」を使っています。

また、今朝の産経新聞も見出しでは、



花火見物事故明石署報告30分遅れ 会場内の警備手薄 確認に手間取る」



と、これまでの「将棋倒し」を「花火見物事故」に変えました。ただ、本文中では日経新聞と同様に、



「幼児ら十人が死亡した兵庫県明石市の花火大会将棋倒しで・・・」



と「将棋倒し」を使っています。ちょっと中途半端な表現の文章のような気がしますが。そしてもう一か所、これは全く日経新聞と同じく、警備の無線連絡の内容を紹介したものとして、



「無線で署と現地警備本部に"歩道橋南詰で将棋倒し"と報告」



と「将棋倒し」が出ています。今日からかな?と思って念のため、前日(7月27日)の夕刊の見出しも確認すると、



(産経)「花火見物事故予見可能性あった」

(日経)「明石の歩道橋事故橋上に5000人超か」




と、ともに「将棋倒し」の文字は消えていました。

ただし本文中には

(産経)「幼児ら十人が死亡した兵庫県明石市の花火大会将棋倒しで、・・・」

(日経)「将棋倒しになった現場では・・・」


と「将棋倒し」が使われていました。特に産経新聞は、この上に紹介した一文は「定型」としたようで、夕刊社会面にも全く同じ文章が載っていました。

新聞社が「将棋倒し」という表現に気をつかった背景には、新聞社がそれぞれスポンサーになっている、将棋のタイトル戦を持っていることも関係あるのでしょうか?スポンサーだから強気に「何といわれようと、"将棋倒し"は使う」と主張するのか、それとも「将棋界とは持ちつ持たれつなので、嫌がっているようなら使わない」としたのか?実際のところは、どうなんでしょうかね。

2001/7/28

(追記)

読売テレビ報道局では、その後も「将棋倒し」を使っていますが、放送局の間にも「将棋倒し」を使わないところが出てきました。

8月6日(月)のNHK・ラジオ第一放送で、この事故のことを、

「(花火見物客が)折り重なるようにして倒れた明石の事故で・・・」

と表現していて、「将棋倒し」という言葉は使っていませんでした。

2001/8/7
(追記2)

将棋の羽生善治名人と翻訳家の柳瀬尚紀さんの対談集「対局する言葉〜羽生VSジョイス」(毎日コミュニケーションズ・1995、5、9)の中で柳瀬さんが、
「将棋の言葉ってのはよくできていて、そのニュアンスや微妙な意味合いを他の事場ではなかなか表現できないんですね。まして英語にするとなると、これは相当難しい。“王手”とかね、一般に流通している将棋の言葉はいくつかあるけど、いちばんだめなのは“将棋倒し”ってやつだな。なにかあるとすぐ“将棋倒し”でしょう。あれは本当に気分が悪い。」

と話しています。これを受けて羽生名人も、
羽生「そうですね。悪い時しか使わないですもんね。英語ではなんていうんですか。」
柳瀬「ドミノ倒しなんです。」
羽生「あ、そうなんですか。すぐに英語になるのはだめなのかな。あと“将棋を打つ”というのも困りますね。“打つ”は外にあるものを打つ。なかのは動かす。だから“指す”ですよね。」
柳瀬「そう、それから“千日手(せんにちて)”を“せんじつて”、“悪手(あくしゅ)”を“あくて”、“棋士(きし)”を“ぎし”とか。

というふうに会話が進んでいます。
やはり「将棋倒し」は将棋好きな人達には評判が悪いようですね。
明石の事故に関しては読売テレビでも、
「あの事故の状況は“将棋倒し”という状況ではなく、もっとひどい
“群集雪崩”という状態だった。」

という調査報告を受けて、明石の事故に関しては「将棋倒し」は使わないことになりました。つまり、事実に対して用語が適切ではなかったという理由です。将棋連盟に対しての配慮と言うことではありません。
また、2月の用語懇談会で東京に行った時に、テレビ東京の替山さんという委員の方が、
「道浦さん、こんなの見つけましたよ。」
とコピーを持ってきてくれました。それは三省堂が出している「三省堂ぶっくれっと・2002年1月号」の中の「言葉は誰のものか?」というエッセイで、エッセイストでロシア語の翻訳家でもある(と思う)米原万里さんが書かれたものです。そこには、次の5つの、「新聞記事とおぼしき文章」が載っていて、このうち二つは本当にあった記事、あとは偽物の記事だそうです。
(1)日本ビリヤード協会理事会が「玉突き事故」という表現はやめて欲しいと申し入れた。
(2)日本石油連盟が「油を売る」という表現をやめて欲しいと申し入れた。
(3)日本将棋連盟は「将棋倒し」という表現はやめて欲しいと申し入れた。
(4)茶の湯文化普及協会と製茶業協同組合は「お茶を曳く」という表現はやめて欲しいと申し入れた。
(5)東京都はり・灸・あん摩マッサージ指圧師会が「お灸」という言葉を懲罰の意味で使わないよう申し入れた。

この5つのうちホンモノはどれ?ということですが。わかります?答えはおそらく(3)と(5)でしょうけれど。
米原氏は、
「いずれも、初めて記事を目にしたときには、思わず吹き出してしまった。“うううう嘘だろ!じじじじ冗談だろ!”しかし、どうやら抗議した側は大まじめらしい。字句や言語表現は、それが指し示す事物を飯のタネにしている人たちからなる業界団体の所有物だと考えているらしい。」
「始末の悪いことに、それをごもっともと受け容れるメディアが殊の外多い。“将棋倒し”という語も、抗議された翌日から産経新聞(アッパレ)を除く紙誌面やテレビ・ラジオの音声から消えた。」

と、かなり批判的です。でも、日本テレビ系列(つまり読売テレビ)ではその後もちゃんと「将棋倒し」を使っていたのに、米原さんは、すべてのテレビを見て聞いたわけではないようです。全部のように言うのは、おやめ下さい。また、産経新聞も翌日は「将棋倒し」出てましたし「産経抄」でも「“将棋倒し”を使わせないのはおかしい」と書いていましたが、翌々日から他紙と同じように消えてしまったのに、一日頑張っただけで、「アッパレ」というのも「いかがなものか」と思います。ご主旨はわかりますが。

また、去年秋の用語委員会で、思いきって新聞社の委員の皆さんに聞いてみました。
「各新聞社は、名人戦とか棋聖戦とかの将棋のタイトル戦を持ってらっしゃいますが、そのあたりに配慮して、将棋連盟の申し入れを受け容れたということはございませんか?」
思いきったことを聞きおるなあ・・・という感じのどよよという笑いが起こった後、ある新聞社の方が「確かにそういう面がないとは言えませんね。」とまじめに答えて下さいました。やっぱり、そういう面はあったんだ。

2002/3/5
(追記3)

2月7日の読売新聞の投書欄。京都府相楽郡の小学5年生、真野友理恵さんが
「生き物ドミノたおし止めて」
という投書を寄せています。「将棋倒し」ではなく。

2002/3/7
(追記4)

またいたましい事故が・・・不幸中の幸いなのは亡くなった方は出なかったということですが。2004年10月13日、大阪市北区の児童施設「扇町キッズパーク」に、遠足で来ていた和歌山県橋本市の小学生が、エスカレーターで将棋倒しとなり、うち男の子一人が重傷です。
このニュースを伝えた翌14日の新聞各紙で「将棋倒し」という表現を使った新聞は一紙もありませんでした。
見出しを見てみると、
「児童ら十数人 次々転倒」(日経)
「小1次々 十数人転倒」(産経)
「十数人転倒、小1重傷」(朝日)
「遠足の小1重傷 エスカレーター 十数人転倒」(読売)
「小1 15人次々転倒」(毎日)

で、「将棋倒し」はありません。また本文での表現でも、
「1年生15人が折り重なるように倒れた。」(毎日)
「一年生児童十数人が、折り重なるように転倒。」(読売)
「児童十数人が折り重なるように倒れた。」(朝日)
「後続の児童らが相次いで倒れたという。」(産経)
「児童ら十数人が次々と転倒」(日経)

というふうに「折り重なるように倒れた」とか「次々と」「相次いで」といった表現を使っているようですね。
ちなみに読売テレビ(日本テレビ)では「将棋倒し」を使いました。
「将棋倒し」を使わなかった新聞ですが、その中で毎日新聞は、「世界の目」というコーナーで、韓国の韓日ビジネス代表・池東旭(チトンウク)氏が日本語で寄稿した文章に、
「各ドミノの予兆に警戒せよ」
という見出しをつけていました。
またこの日の各紙は、将棋の羽生善治・王座が、王座13連覇を達成し、タイトル戦の連覇記録としては大山康晴・十五世名人が名人戦で昭和34年から46年まで記録した13連覇に並んだ、と報じています。それとの関係で気を使ったのでしょうか。というより、最近「将棋倒し」は使わない傾向なのかも知れません。

2004/10/14


◆ことばの話379「れる敬語」

少し前の話なんですが・・・。

大阪のJR天王寺駅でエスカレーターに乗っていると、こんな表示がありました。



「歩かれる方のために、左側をおあけ下さい。」



今回は左か、右か、どちらをあけるか?の問題ではなく、この「歩かれる方」という言葉についてです。ここではいわゆる「れる敬語」が使われています。これを別の敬語(お〜になる)で言ってみると、



「お歩きになる方のために、左側をおあけ下さい。」



になります。この二つの文を比べてみると、「れる敬語」のほうが、敬意が低いように感じられたのですが、いかがでしょう?



つまりJRにとってのお客さまは、この場合2種類あります。一つは、実際にエスカレーターに乗っていて、このアナウンスを聞いている、歩かない客。もう一種類は、もしかしたらいるかもしれない、エスカレーター上で歩く客です。(実際、その時はエスカレーター上で歩いている客はいませんでした。)

最初のお客を「客」、あとのを「Anyone」と名づけると、

「歩かれる方のために、左側をおあけ下さい」

という文は、文章上は「客」を「Anyone」より上位に位置づけているように見えます。

(「れる敬語」が「お〜になる」よりも敬意が低いとした場合)

ところが、動作上は、「客」が「Anyone」に道を譲れと言っているのですから、言葉とはうらはらに、「Anyone」に対しての方が、結果として敬意が高くなっているのではないでしょうか?これが、

「お歩きになる方のために、左側をおあけください」

ならば、文章上「客」に対しても「Anyone」に対しても同等の敬意を払っているので、結果(動作)として、道を譲ってもしょうがないかな、という気になるのですが。



そんなことを考えている間に、誰に道を譲ることもなく、エスカレーターはプラットホームに着いたのでした。

2001/7/23


◆ことばの話378「梅雨」

ようやく関西も「梅雨明けしたとみられる」という、いわゆる「梅雨明け宣言」が出ましたが、その後ぐずついた天気が続いています。(ちょっと前に書いたので、ずれてて、ごめんなさい。)

そんな今年の梅雨の間、気になったことがあります。

「梅雨」という言葉のアクセントに関してです。

本来この言葉は「梅雨(つゆ)」(LH・・・Lは低く、Hは高く発音)と「平板アクセント」のはずです。だからこの後に助詞の「が」がつくと、「梅雨が(LHH)」となるはずなのです。

ところが、関西だけでなく東京のアナウンサーも、「梅雨が(LHL)」という尾高アクセントで発音する傾向が、非常に強くなっています。

「つゆ」という言葉の同音異義語には、「露」「つゆ(汁)」がありますが、こちらのアクセントは両方とも「HL」と「頭高」です。いずれにせよ、尾高アクセントはありません。

なぜ、尾高になるのか?

これは、アクセントの平板化が進んでいると言われていることに対する反動なのではないでしょうか?発音・アクセントのプロと言われるアナウンサーたちですから、「平板アクセント」の「梅雨」という言葉について、

「平板ではいけないのではないか?」

と思い込み、かといって「つゆ(HL)」と頭高にすると「露」になってしまう。そこで第三の選択として「尾高」というアクセントを選んだのではないでしょうか?

アクセントの平板化が進む一方で、それに逆行するようなこんな動きもあるのです。

でもこのアクセント、耳にすると、気持ち悪いんだよなあ、私は。

2001/7/20


◆ことばの話377「パール・ハーバー3」

「平成ことば事情359パール・ハーバー2」で書いた中で、「パールハーバーに出撃する日本のゼロ戦の乗組員が頭に巻いていた鉢巻きの"必勝"の文字が、左から右の横書きになっていた。おかしいのではないか?」と言うことに関して。

「日本語大博物館〜悪魔の文字と戦った人々」(紀田順一郎著・ジャストシステム)という本を読んでいたら、「縦のものを横にする」(第9章)という章に、横書きに関する記述がありました。



当時文章などの横書きには、左から書くことが定着していたが、看板や駅の表示、書籍雑誌の標題などは左横書きと右横書きが混在しており、とくに鉄道の場合は切符が左横書き、出札口の表示が右、食堂車や寝台車は左、大阪行き急行は右という具合で、不便この上なかった。しかし、これを左横書きに統一しようとすると反対意見が強く、なかなか実現しなかった。



「当時」というのは昭和ヒトケタの年代です。そして、さらに



戦時に入るとさすがに為政者の側から左右混在の非能率性が論議の的となり、開戦の翌年(1942)文部省の音頭で左横書きへの統一の動きが打ち出された。当時の「国策研究会週報」(四―十八)には、文部省国語課長の次のような文章が載っている。

「これが新聞に出るといろいろ投書がくるのです。なかにはそんなことをすると国がほろびるという国粋的な考えをもっている方もあるのです。別に左になっても大和魂が無くなるわけではないと思いますが、この間のハワイ特別攻撃隊の古野少佐の遺書が左横書きであります。これからは経緯がありましょうが、皆様の御助力により進めていきたいと考えます」

この決定をきっかけに、雑誌の標題やポスターなどは左横書きが増えたが、そのような分野で標準となるには、終戦後なお数年を経なければならなかった。

(下線は、道浦による)

とありました。真珠湾攻撃の時の少佐の遺書が、「左横書き」だったとは!

ということは、「必勝」の鉢巻きも「左横書き」だった可能性がないとは言えない。

ちょうどあの時機は、横書きが「右から左へ」混沌と戦っていた時期でもあったのですね。

「パール・ハーバー」の映画の変なところが気になってしまいましたが、気をつけているとそれに関連していろいろなことが偶然見つかったりするんですねえ。
2001/7/18

(追記)

さらに!

「皇国の興廃はこの一戦にあり」

というセリフについて、日露戦争の時の東郷元帥の言葉と書きましたが、(それは間違いではないのですが)真珠湾攻撃の際も、この言葉が使われたそうなのです。

「日米開戦の真実〜パール・ハーバーの陰謀」(新井喜美夫著・講談社十α新書)によると、昭和16年12月7日、機動部隊の旗艦「赤城」は、山本五十六・連合艦隊司令長官から、

「皇国ノ興敗、カカリテコノ征戦ニアリ。粉骨砕身、各員、ソノ任ヲ完ウセヨ」

という督励電報を受け取ったそうです。



「これを受けて訓示に立った、機動部隊の総括司令官の南雲中将は、

"皇国の興敗コノ一戦ニ在リ。各員粉骨砕身努力セヨ"と、日本海会戦で秋山真之参謀長が起草し、東郷平八郎元帥が、きわめて簡にして要を得た「名セリフ」として吐いたその言葉を、そのまま語っていたという。

これを聞いた機動部隊の面々は、山本長官からの訓辞をさけて、あえて東郷元帥のセリフをそのまま口にしたのはどういうわけなのだろうといったふうに、ちょっとした話題になった。」(206〜207ページ)




そうなのです。ということは、映画のあの場面もかなり史実に正確な表現だったということになります。

それにしても気になるのは、日本公開用にカットされたと言う部分。いったいどんなモノが描かれていたのでしょうか。

半年後ぐらいにまたレンタルビデオで出てきた時に、「ノーカット版」なども出るのかもしれませんね。あっ、レンタル開始が、日本時間の12月8日だったりして。

2001/7/22

(追記2)

映画「パール・ハーバー」、"恋愛映画として"なかなかの人気のようで、興行収入も、100億円を越えそうなんだそうです。(「週刊新潮」の記事による。)この夏は、「ジュラシックパーク3」や「猿の惑星」「A.I」など大作も多くて、映画館に涼みにいく人も多いようですが。

さて、話を元に戻して映画「パール・ハーバー」ですが、机の上の資料を整理していると、

5月25日付の毎日新聞のこんな記事が出てきました。



「ダーティージャップ→ジャップに」「米映画"パール・ハーバー"」「日本でのヒットに影響、せりふ修正」



という見出しの囲み記事で、本文を読むと、



「ロサンゼルス佐藤由紀・



大平洋戦争開戦をテーマにした米映画"パール・ハーバー"(真珠湾)の日本、ドイツ向け版で、製作のディズニー側が、日本を刺激しないようオリジナルを2、3カ所修正したことが23日、明らかになった。米NBC放送などによると、削除されたのは、日本本土初空襲の中心人物が、自分の搭乗する飛行機が日本軍の攻撃で操縦不能になったら、民間人を狙い撃ちすると語った部分だ。また、主役の看護婦が、映画の締めくくりでいう"ダーティ(卑劣な)ジャップ(日本人へのべっ称)"と語るせりふのうち、"ダーティ"の表現も削られた。」




と書いてあります。これは日本での興行収益に影響が出ないためで、宣伝も、戦争・歴史の側面を前面に出したアメリカ国内と違って「恋愛部分」に重点を置くそうで、確かにそうなってましたね。すっかり、ディズニーの戦略に乗ってしまった訳か。

ちょっと、くやしいです。

2001/7/28


◆ことばの話376「マイムマイム」

子どもの頃、というよりも中学生ぐらいに、学校やキャンプでよくやったフォークダンスに「マイムマイム」というのがありました。

ちょっと物悲しいメロディーに乗せて、みんなで手をつなぎ大きな輪になって、ちょっと複雑(でもないか)なステップを踏みながら、

「マイムマイム、マイムマイム、マイムレッサッセー!」

と歌って、輪の中心の方に歩んでいって輪を縮めてはまた元に戻る「オクラホマミキサー」と並んで、ポピュラーなフォークダンスでした。

先日、青少年企画「トミーズのこの指とまれ2」(8月11日・午後5時放送)のロケの最中、海原やすよ・ともこのお二人と、武内由紀子ちゃんが、子どもの頃の遊びを思い出すシーンで、この「マイムマイム」が出てきて、「よくやったよね。」という話になったのですが、肝心の

「マイムマイムマイムマイム、マイム○○○!」

「○○○!」の部分の歌詞が、微妙に違ったのです。これに関しては私も気づいていました。子どもの頃、引っ越した先の大阪府枚方市と、引っ越す前の堺市でも微妙に違ったからです。一体全体、正しい歌詞は何なのでしょうか?

さっそく、会社に戻ってから、アナウンス部で聞いてみました。すると、

「レッサッソ」(東京都練馬区)

「レッサッセ」(大阪府枚方市)

「ベッサッソ」(北海道釧路市)

など、やはり意見が分かれました。

これは調べるしかない!さらに社員やスタッフに質問を重ねました。



「エッサッサ」(京田辺市・大阪市西区ほか、大阪市1名)

「エッセッセ」(大阪府枚方市)

「エッサッサー」(大阪市)

「エッサッサまたはチャチャチャ」(大阪市東住吉区)

「エッサンソー」(神戸市)

「エッサッソ」(奈良市・東大阪市)

「エッサッホイ」(大阪市)

「エッサッサだが、まれにベッサッソ」(大阪市)

「ベッサンコ」(大阪市2人)

「ベッカンコ」(西宮市・26歳)

「ベッササ」(大阪市北区)

「ベッサッセ」(西宮市)

「ベッサンソン」(大阪府堺市2人・神戸市・長崎県大村市)

「ウッ・マイム・ベッサッソン」(神戸市)

「レッセッセ」(大阪市・福岡市・所沢市・東京都大田区・神奈川県横浜市・奈良県生駒市ほか1名)

「レッサッサ」(千葉県松戸市)

「レッセンソ」(神奈川県鎌倉市)

「レッサッソー」(尼崎市・東京都練馬区)

「レッサッセ」(大阪府枚方市、東京都)

「メッサソー」(奈良県大和郡山市)

「デッカンショ」(大阪府豊中市)

「マ・イ・ム」(奈良市)

「マイムマイムというものはやったことがない」(西宮市・23歳、大分市24歳、大阪府堺市)

「やったことはあるが、歌詞はなかった」(宝塚市・大阪府池田市)

「覚えていない」(大阪市、大阪府池田市、奈良市ほか2名)

「うちの中学では江州音頭はやったが、マイムマイムはやっていない」(滋賀県大津市)




計47人に聞いたところ、以上のような結果になりました。

20種類ぐらいも言い方があるんですねえ。しかし大きく分けると、

「エッサッサ系」「ベッサッソン系」「レッセッセ系」

の三つに分けることが出来ると思います。

共通しているのは、最初の言葉が「エ段」で始まっていること。二番目と三番目の言葉は「サ行」であること。

「エッサッサ」は、いかにも「盆踊り風」で、外国と日本文化の融合という感じがしますね。おもに関西の人がこの「エッサッサ」系を使っていたようです。「ベッサッソン」に関しては、なんか外国人の名前みたい。「レッセッセ」も「セイヤ!セイヤ!」系統のお祭りのお神輿を担ぐ時の掛け声みたい。ある人は「マイムレッセッセだとは思うが、それは、別のフォークダンスである"サラスポンダ、レッセッセ"と混同しているような気がする」とも話しています。



で、正解は?インターネットで調べてみました。すると「マイムマイム」というキーワードを入れただけで、なんと1200件以上が出てきました。その中から「本来はどう言うのか?」の関して記述してあるものをいくつかピックアップしたところ、この「マイムマイム」の歌詞はヘブライ語で、もともと旧約聖書の「イザヤ書」12章3節の言葉だということがわかりました。本来の全体のフレーズは



「ウシュアヴテム・マイム ベサソーン ミマアイネー ハイ・シュ・ア」
(汝ら喜びて 救いの泉より水を汲まん)



ということらしいのです。「マイム」は「水」という意味、「ベサソーン」は「喜びのうちに」という意味
なんだそうです。(やたらと伝聞形が続くな。)

ということで、正解は「ベサソーン」。イスラエル民謡というのは知ってたんだけどな。「ベッサッソ」「ベッサッソン」あたりは正解と言ってよいでしょう。

さらに、インターネット上で「マイムマイムの研究」というホームページも見つけました。

それによると、



「ベッサッソ」(日本全国)

「レッセッセ」(日本全国)

「デッカンショ」(仙台市中央部)

「ウマノエクサクソ」(宮城県郡部)

「エッサッサ」(兵庫県丹波篠山)

「マイノエッサッサ」(北海道)

「メッサッソ」(福岡県)

「ベッサンソン」(東京都)

「ベッサンソ」(大分県)

「レッセッソ」(神奈川県横浜市)

「ベッサッソン」(地域不明)

「レッサッソン」(地域不明)

「レッサッセ」(地域不明)

「レッサンショ」(地域不明)




というデータが載っていました。

私が調べたものと同じような傾向が見られますね。

ところで、この「フォークダンス」はいったいどういうふうにして日本に伝わってきたのでしょうか?ふと思いついたのは、

「戦後、日本の民主化を進める手段として、GHQが導入したのではないか?」

ということ。「フォークダンス」って、「オクラホマミキサー」に代表されるように、

いかにも「アメリカ的民主主義」のにおいがするじゃないですか。しませんか?

父(昭和10年生まれ)に聞くと「中学一年生からフォークダンスはやった。」といいます。どんな曲だったかは忘れたそうですが。中学一年生というと、昭和23年(1948年)。その時分には、三重県上野市でもやっていたのです。

またインターネットで検索をしてみると、昭和25年(1950年)「日本フォークダンス協会」というものが結成されています。この年は、GHQが戦後禁止していた「学校柔道」の復活を認めた年でもあります。

それとおもしろいことに、当時アメリカ的民主主義とは相反する共産党も「歌声、フォークダンス、スポーツレクリエーションなど趣味的活動」に積極的に取り組んでいたということです。

おそらくその系統から、学校教育の場でも、当時力を持っていた日教組の先生たちが、子どもたちにフォークダンスを教えていったのではないでしょうか?しかし、それがアメリカのフォークダンスでも良かったんでしょうかね?

もう一つ考えられるのは、キリスト教系の布教活動の一環として、例えばYMCAなどの青少年活動を通じて、キャンプなどの際に子どもたちに教えていったのではないか?ということ。私も、確か堺のYMCAのキャンプで「マイムマイム」を覚えました。その時は「レッセッセ」だったような気がするな。

「布教活動とフォークダンス」は、「布教活動と盆踊り」と同じ構図でしょうね。ごくごく自然です。踊りから入っても「ええじゃないか」ということで。

ついでに「シャローム」という別れの歌もYMCAで教わりました。これもイスラエルの歌でした。イスラエルと言えば、この「平成ことば事情323」でも書いた、「屋根の上のヴァイオリン弾き」の中に出て来る曲の響きは、「シャローム」や「マイムマイム」に通じる何かもの寂しげなものがありましたね。

堺YMCAに電話して、「30年ほど前にそちらで、"マイムマイム"やら"シャローム"という曲を教わったんですけど、今も教えていますか?」と聞いたところ、「その曲は知っているが、今は教えていない」という答えでした。時代の流れというものですね。


もうひとつ発見がありました。「マイムマイムをやったことがない」人は、世代的には若い世代に多いようなのです。最近、日教組の組織率も低くなったことも関連しているのでしょうか?それとも「男女七歳にして席を同じゅうせず」の世代には、"うれしはずかし"新鮮だった「フォークダンス」が、出席名簿順も「男女混合が当たり前」の世代にとっては、なんの魅力もなくなってしまったんでしょうか?

もちろん、私ぐらいの世代(昭和36年生まれ)でも「やったことがない」人もいますが、それは「男子校に通っていた」とか「地元の踊り(江州音頭)を優先的にやっていた」など、また別の理由がありそうです。



以上のようなことは、私が個人で勝手に考えた、いわば「仮説」です。それを裏付けるためには、フォークダンスの歴史について調べなければなりません。

そこで「社団法人・日本フォークダンス連盟」というところに電話して、事務局長の相澤行雄さんという方に教えを請いました。それによると、

「フォークダンス自体は、明治時代、鹿鳴館で踊るために取り入れられた踊りの一つで、鹿鳴館で男性の踊りのお相手をさせるために、女子高等師範(お茶の水女子大学の前身)の女学生に、ダンス(フォークダンスも含む)の練習をさせたそうです。

「マイムマイム」「オクラホマミキサー」といった私達におなじみの曲が日本に入ってきたのは、やはり第二次世界大戦の終戦後だそうです。

そして結果として、フォークダンスは、日本国民を「(アメリカ的)民主化」するために一役買ったことになりましたが、相澤さんによると、GHQは最初からそう意図してフォークダンスを広めた訳ではなかったそうです。

当時のGHQの教育担当者の中に「スケアダンス」と呼ばれるフォークダンスの一種を趣味としてやっている人がいました。名前は、ウィンフィルド・ニブロさん。最初は長崎で、その後札幌、東京と、赴任先でレクリエーションの一種として「スケアダンス」を広めていったのです。戦後すぐの、何のレクリエーションもない時代でしたから、男女が一緒に踊るという「スケアダンス」は瞬く間に広がっていき、当時の文部省も、国の施策として、フォークダンス(スケアダンス)を、各都道府県の教育委員会を通じて広めていきました。やはり儒教的な「男女七歳にして、席を同じゅうせず」という考え方で育ってきた人たちにとって、男と女が手をつないで踊るダンスは、戸惑いとともに、新鮮な喜びをもたらしたようです。それは昭和22年〜30年(1947〜1955年)のことでした。

「マイムマイム」は当初、アメリカから日本に入ってきたのですが、その後、本場イスラエルから日本にやってきたフォークダンス指導者が、日本に「マイムマイム」を定着させたのだそうです。

明治以降、学校教育の場では「行進遊戯」という名前で取り入れられていた「フォークダンス」ですが、学校以外の場で、つまり「社会体育の場」でフォークダンスが取り入れられたのは、やはり戦後の話だそうです。

このフォークダンス人気を、労働組合や共産党といった組織も見逃しませんでした。若者を組織する際の人集めの手段として、歌声運動などとともに「フォークダンス」も使われたそうです。フォークダンス連盟の人たちは、労働組合の集会でフォークダンスの指導に呼ばれる時は、決して政治的に利用されないように用心したといいます。

また、YMCAやYWCAといった組織でも、アメリカの本部から派遣された指導主事が 野外活動・レクリエーションの一環として、フォークダンスを日本でも広めていきました。

中でも、東京・神田YMCAのバクリーさんという人は、正統フォークダンスを広めた人として有名なんだそうです。

学校教育の中でも取り入れられたフォークダンスですが、昭和50年代(1975年〜)の初めからの約10年間、それまで文部省の指導要領で「必ず行う」ことになっていたフォークダンスが、「教えてもよい」という形になったため、その間に小学校時代を過ごした人の中には学校でフォークダンスを習わなかった人たちも出てきました。

その後、昭和60年代初め(1985年〜)に指導要領で復活したフォークダンスですが、来年(2002年)から「フォークダンス、またはモダンダンス(表現運動)を行う」と変わるために、「マイムマイム」を始めとするフォークダンスは、また途絶えるおそれもあります。

と、いったところが、相澤事務局長からうかがった、マイムマイムとフォークダンスを取り巻く歴史です。

おおむね、私の仮説に近いところでしたね。(えっへん。)

それにしても今後、「マイムマイム」が行われなくなってしまうと、こういったいろんな種類の歌詞のフレーズがあったことや、その歴史を取り巻く状況なども、忘れられて行くんじゃないかと思うと、ちょっとさびしい気がします。

2001/7/27

(追記)

フォークダンスの参考書、買ってきました。

「すぐに役立つフォークダンスハンドブック」(関 益久著・黎明書房)。

これにしっかり「マイムマイム」が載っていました。それによると、「マイムマイム」はイスラエルの1000種類(!)あるといわれるフォークダンスの中でも代表的なもので、「イスラエルの踊りの原点」といわれているそうです。日本には、もともとアメリカから入ったといわれるこの「マイムマイム」ですが、1963年(昭和38年=東京オリンピックに前の年)に、グーリット・カドマン女史が来日して、イスラエルの踊りを指導したそうです。

2001/7/29

(追記2)

久しぶりの追記です。それにしてもこれは、随分と力を入れて調べて書いてますねぇ・・・。
さて、2007年11月19日、いずみホールで、2005年の第5回大阪国際室内楽コンクール&フェスタのフェスタ部門でメニューイン金賞を受賞したピアノの夫婦デュオ、
「デュオ・アドモニー」

のコンサートが開かれ、聴きに行きました。日本人の奥さんとイスラエル人の旦那さんの息の合ったデュオ、あっという間にアンコールに。そのアンコールの2曲目に二人が弾いたのがイスラエル民謡『マイムマイム』でした。演奏の前に、
「この曲は、泉に水を汲みに行った時の喜びを表したものです。」
と、奥さんが日本語で説明をされました。ピアノ連弾で聴く『マイムマイム』は、どことなく日本民謡の、 『すいすいすっころばし』
を思わせる節回し(?)が感じられました。音階で、日本の「四七(よな)抜き」に似たものがあるのかも知れませんね。
2007/12/21

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