◆ことばの話315「そうなんやぁ」

数年前から耳にする関西弁に

「そうなんやぁ」

というのがあります。

これは主に20代〜30代の女性が、相づちを打つ時に使っています。

この言葉のアクセントは、東京の若い女性が使う相づちの

「そうなんだぁ」

と、まったく同じです。「だ」が「や」に変っただけです。以前はこういう相づちは、なかったように思います。

「へー、そうなん」

と「だ」も「や」もつかない形はあったように思いますが。

思うに、この「そうなんやぁ」は、東京志向の強い、あるいは標準語と接触することのある職場にいる関西の女性が使い出したのではないでしょうか。

形は関西風ですがアクセントが東京風というミックスさせた形は、大阪大学の真田信治教授の言う「ネオ方言」の一つかもしれません。形が東京風でアクセントが関西風なら、分かるのですが、その反対、というのは、ちょっと面白いな、と考えています。

2001/5/27

(追記)

東京の方の「そうなんだ」という言葉に関しては、1999年9月、福井大学の岡島昭浩助教授が主催する「ことば会議室」で「え、そうなんだ」というタイトルで出ていました。岡島先生は「自己完結してしまう"そうなんだ"にはちょっと抵抗を感じる」と書いています。

なんとなく違和感を覚えるのは、それを言っている人が、目の前に私という話し相手が居ながら、まるで「独り言」を言っているように感じるからで、その意味では「自己完結しているよう」というのはまさにそのとおりだと思います。

2001/6/15


◆ことばの話314「二つに分ける思想」

私がまだ学生の頃ですから、今から20年以上前の話ですが、大学入試に「共通一次テスト」が採用されて「マークシート」が話題に上りました。解答を「書く」のではなく「塗る」ことに関して、ずいぶん是非論が湧き起こったものです。

それから20数年、最近、とみに感じるのは、物事を二分する考え方についてです。

「○(マル)か×(バツ)か」「正しいか正しくないか」「善か悪か」「得か損か」「分かりやすいか分かりにくいか」「便利か不便か」「おもしろいかおもしろくない(つまらない)か」「仕事が出来るか出来ないか」などなど。ちょっと、これほどなんでもかんでも二つに分けて考えてばかりでは、人類はみんな馬鹿になるんじゃないか?と心配してます。

そもそも、キリスト教の考え方も「善と悪」「天国と地獄」、仏教だって「極楽と地獄」、陰陽道だって「二分」だし、大昔からそういう分類法はあった訳です。

そして現代、何といってもコンピューターは「デジタル」です。「0」か「1」かの二進法です。

人間そのものは「アナログ」なのに、それを「デジタル」で完全に表現できると思うこと自体、相当おごった考えではないでしょうか。

物事は、連続しているのです。だから、100%正しかったり、悪かったりというケースは“まれ”で、ほとんどは(程度の差こそあれ)グレーゾーンに含まれる訳です。

「無限とは何か?」なんて話にもつながっていくと思うのですが、例えば、以前この「ことばの話」で書いた「虹は何色?」で、「虹というのは、光(スペクトラム)の色すべてが現れていて、それを人間側の便宜上、7色に分類し、名前を付けている」というようなことを書きました。それと同じように、例えば「音」でも、音階のドレミファソラシドのドからドまでは7つの音色がありますが、ピアノのそれぞれの白い鍵盤の間には、半音の黒い鍵盤が5つがあります。そして、ピアノにはないけれど、半音の黒い鍵盤と白い鍵盤の間の音も、実際にはある訳です。「4分の1音」ですね。ピアノでは弾けませんが。歌では時々出てきます。「8分の1音」や「16分の1音」もあるでしょう。人間の耳では聞き取れないかもしれないけれど、どんどん半分にして行く・・・これは「微分」の考え方ですね。つまり、変化の度合いを知ることが出来る。細かく割れば割るほど、このデジタルな方法はアナログに近づいていく。しかし永久にアナログにはなれない。おや?話がそれましたね。もとに戻しましょう。

オーケストラがコンサートを行うときに、その日の会場の乾燥具合や、音の響き具合(ホールの状況)によって、「ピッチ」を変えたりすると聞きます。「ラ」の音が、440ヘルツだったり、430ヘルツだったりするそうです。つまり、音も連続していて、それを便宜上、ドレミファソラシドと分類して使っているだけなのです。

それと同じように、世の中のあらゆる出来事は、分類することが出来る。そして分類することで、「認識」出来、認識することによって、活用することが出来る。

その「分類」の一番大元が「二分」することです。

人間、分からないことを積極的に受け入れることは、なかなかできないでしょう。そういった意味では、まず「わかりやすい」ものが選択されます。その「わかりやすさ」の根本にあるのが、「二分法」です。

「分類」はおそらく、人間が生活する上での「知恵」として登場したのでしょう。しかし、

あくまで便宜上「分けている」ことを忘れて、「二つしかない」ように思ってしまう。ことの危険性について、もう少しわきまえておく必要があるのではないでしょうか。

それが分かった上での「二分法」と、気づかずに、あるいは気づかないふりをして使う「二分法」では、違うと思うのですが。



などと考えていたら、6月5日(火)の読売新聞夕刊に作家の富岡多恵子さんが、こんな事を書いていました。



「スポーツ選手がインタビューなどで“結果を出す”というのをよく聞く。・・・金を出す方からいえば、「結果」のはっきり出てくるものはわかりやすいから、出しやすい。そして“大衆”も“結果”がわかりやすいものの方が、わかるための努力が要らぬ分だけ好きである。・・・・ 「−する人、−しない人」のごとき書名の流行に見る、二分法的な処世術が受けてもいる。アレかコレか、努力しないでわかりたい、つまり早く“結果”がほしいのである。」



いやあ、つまりはやはり「処世術」なんですね、二分法は。「知恵」とも言いますが。

しかし、知恵に走るものは知恵におぼれる・・・なんて言いませんでしたっけ?

この意見は、是か非か?・・・つい使っちゃうんですよね、二分法。

2001/6/8

(追記)

「加藤周一対話集4 ことばと芸術」(かもがわ出版)の中で、評論家の加藤周一氏と中国文学者の一海知義(いっかい・ともよし)氏との2000年の対談の中に、こういう一節がありました。

「ヨーロッパを"ヨーロッパ世界"と呼び得るのは、ヘレニズムとヘブライズムによって、内部に豊かな多様性をはらみながら、歴史的に一元的世界を形成していったということがあると思います。大して、アジアは、とくに東北アジアには中国文化の影響が多大だったと思いますが、ヨーロッパのような一元性を歴史的にもってこなかった。一元的世界と多元的世界との優劣を論じるのは空しいことだと思いますが、アジアにおいて一元化を防げる要素が歴史的にあったということも、考えておく必要がありませんでしょうか。」

これを読んで思ったのですが、「善か悪か」「得か損か」「わかりやすいか、わかりにくいか」などの「二つに分ける思想」ということは、よく考えると、価値尺度は一つです。一つの価値尺度において、プラスかマイナスか、価値があるかないかを示したものです。だからこれはまさしく一元的世界であり、唯一の神を信じるヨーロッパの「一神教」の世界ですね。それに対して、アジアは「八百万の神」=多神教です。

そういった観点から見ると、今進んでいる「二つに分ける思想」=「一元的世界観」の広がりは、紛れもなく「アジア的思想から欧米的思想への転換」を意味するのではないでしょうか。もちろん、生活様式はもうとっくの昔に"欧米ふう"になっていますが、今、精神的なもの、根本的な考え方まで欧米的に、それこそ加速度的に変容しているのではないか、と考えます。

2001/6/18

(追記2)

と書いた文章を、ホームページに載せる前に、ある先輩に送って読んでもらったところ、「西洋的=一元的世界、東洋=多元的世界とすることこそ、二つに分ける思想!その批判から始まったのにそこに行き着くとは、矛盾してるぞ!!」

とご批判(好意を持ってのものですが)を頂きました。

あちゃー、確かにそのとおりですね。そして、

「言葉を使う限りは"分ける"ことから避けられない。なぜなら、言葉とは、分けることだからです。」

なるほど、思い当たる節はありますね。

上でも書きましたが、「虹の色は何色か?」で「色」を分けるのは、色に「色名と言う言葉」を付けて"分ける"ことで成り立つ訳ですし、音も、ドレミファという名前を付けて"分けている"訳です。

私は「分ける」こと自体を否定している訳ではありません。

細かく分けることができるものを、たった二つに無理矢理、分けてしまうことに対して、多様性を否定するのではないか、と批判している訳です。では、いくつに分ければいいのか?と、すぐ答えを聞きたがるのも、どうかと思う一方で、当然そういう答えを求めるだろうな、とも思う訳で。一応答えておくと、「3つ以上に分ける」と言うことになりますか。

しかし、確かに「一元的か多元的か」という考え自体が「二分論」になっています。

しかしそれは形式的にそうなっているだけで、私が批判しているものとは少し性質が違うようにも思えます。

私が批判している、「一元的な二つに分ける思想」は、(中学生の数学で言うと)X軸だけで表現している中で、「0」を境にプラスかマイナスかという区分をしている考え方です。プラス100もプラス1も、同じプラスと括ってしまう考え方です。

プラス1とマイナス1は、この考え方ではまったく正反対の相容れないものになりますが、プラス1にとって、プラス100とマイナス1はどちらが近いかと言うと、マイナス1の方が近いんですよね、差を見れば。プラスはプラスだけで括ることしか考えないと、そういったところが隠されてしまうのではないか、と思う訳です。

さらに言うと、X軸だけで考えるのではなく、Y軸やZ軸を加えることによって、より立体的な像が浮かび上がってくる。X軸のみで表すものは、単純化することによってわかりやすいという特長はありますが、それによって失われている、表現しきれていないことがあることを、常に意識する必要があるのではないか、ということです。

考えれば考えるほど、なんか、頭の中がごちゃごちゃになってくるような気がしますが。



今の政治状況も、小泉人気・真紀子人気で、支持率が80%、90%というある意味では「異常」な状態ですが、ここまで人気が集中することの陰には、「二つに分ける思想」が影響していると思うのですが。

またこの思想は「ゲルマン民族のみが優秀である」というふうな、かつての「ナチズム」、「ファシズム」にも通じるところがあるとも思うので、危険な気がします。

そして、そんな考え方に大衆を導いたのは、なんといっても森・前総理大臣の責任が「大」ではないでしょうか。あれだけ支持率の低い人の後に出てきた人であれば、かなりの高支持率を得られるのは当然と言えるでしょうから。

おそらく、そういったことに皆さんなんとなく気づいていながら、あえて目をつぶっている。そういう空気を感じます。

2001/6/19


◆ことばの話313「DHCって・・・」

今朝(5月25日)の「あさイチ!」での出来事です。番組の中で「ズームイン!!朝!」の出演者・国木田かっぱさんが、「今朝はお寿司屋さんからの中継だ」とPRしたのですが、その時にお寿司屋さんに置いてあった、大きなマグロの頭を見て、S解説員が、



「マグロの目玉の裏には、頭がよくなるDHCが含まれていて・・・」



と発言。出演者一同「ふーん」と思っていたのですが、コマーシャルの間にスタッフから



「DHCではなく、DHAではないのか?」



という声が上がりました。そうですよね、DHCは最近、コンビニなどでも販売されて人気急上昇の化粧品メーカーの名前ですもんね。そこでコマーシャル明けで、



「さきほどDHCと言ったのは、DHAの誤りでした。失礼しました。

ところでNさん、DHAって何の略か、わかる?」




突然、そんなことを聞かれたNアナ、精一杯考えての答えが、



「・・・デオキシリボ核酸」



一同、すかさず



「それはDNAや!!」



さらにそのあと、S解説員が「ボケ」て、



「DHAはだれでも(D)、ほんとに(H)、頭がよくなる(A)の略です。」



とギャグを返したところ、今度はOアナが、



「そうだったんですかぁ。」



てな、やりとりがありました。



正解はもちろん、「ドコサヘキサエン酸」(DHA=Docosa Hexaenoic Acid)です。ご存知ですよね。

それにしても、やるなぁ、Nアナ。計算し尽くされた(?)、このボケ。ボケにはボケで答える、ということなのでしょうか。まさに天然です。普通、言おうと思ってもなかなかテレビではこんなことは言えないものなんですよ。

Nさんはきっと、DHA食品は食べてなかったんでしょうね。こういう人にこそ食べて欲しいのに、DHA.・・・。

ちなみにDHCの方は何の略かと言うと、意外にも、「大学翻訳センター」の略。(Daigaku Honyaku Center)昭和47年の創業時は委託翻訳の会社だったので、この名前なんだそうです。(通販で化粧品の仕事を始めたのは昭和58年から。以上「週刊文春5月31日号」による)



それはさておき、最近、アルファベットの略号が多すぎると思いませんか?もちろん、正式名称をズラズラ言われても分からないのですが、省略されていると、本当になんのことやらわからん!!ということも多いように感じます。

例えば、「DVD」。レンタルビデオ屋さんに行ったら、最近ビデオの棚をじわじわと侵食してきているのがこの「DVD」。私はてっきり「Digital Video Disc」(デジタル・ビデオ・ディスク)の略かと思っていたのですが、正解は「Digital Versatile Disc」(デジタル多用途ディスク)の略なんだそうです。DVDは、見た目はCD=コンパクト・ディスクと同じですが、記憶容量が大きいため映画やアニメなでの動画映像も収めることが出来ます。

「現代用語の基礎知識2001」には「DVDビデオ」という言葉も出ていました。これなら「DVD」の「V」が「ビデオ」ではないことがわかるでしょう。(もし「ビデオ」なら、重なってしますから。)

当初は「デジタル・ビデオ・ディスク」とした向きもあったのですが、最近はほとんど「V」を「Video=ビデオ」ではなくて「Versatile=多用途」の略とされています。



そして、携帯電話やパソコンの液晶画面などにも使われている「TFT」。これはなんのこっちゃ、と思っていたら「薄膜トランジスタ」のことだと、今朝の日経新聞に載っていました。英語では「Thin Film Transistor」でしょう。

その道の専門家でなくてはわからない略語が、とにかく増えました。アルファベットの略語を使う方が、なんとなく賢そうに見えるからでしょうか?

じゃあ、「HAY」って何の略か知ってますか?・・・知らない?じゃあ、教えて差し上げましょう。

「Honma-ha Aho Ya-nen」

2001/5/25


◆ことばの話312「よろしくどうぞ」

こんばんは。プロ野球中継の時間です。



「今日の解説は、堀内恒雄さんです。どうぞよろしくお願いします。」

「はい、よろしくどうぞ。」



ちょーぉと待ったあ!!


「どうぞよろしく」を受けて答えた堀内さんは、なぜ 「よろしくどうぞ」と、反転した答えをするのか??これはよく聞かれる受け答えではありますが、よく考えてみるとなんか不思議ですね。

英語の場合だと、「どうぞ」にあたる「please」は、文の頭について「Please〜」でも、文の一番最後について「〜、please」でも、どちらでも意味は通じますね。

スペイン語だと、「por favor」は、一番後ろにつきますね、普通。



おっ、この「・・・ですね、普通。」というのも"普通は"「普通、・・・ですね」ですよね。これも「どうぞ」と同じく、前に来ても後ろに来ても意味は変らないものの一例でしょうか。

「よろしくどうぞ」は、元の形の「どうぞよろしく」にしても、「どうぞよろしくお願いします。」を省略した形です。

書き言葉にすると、この「よろしくどうぞ」という倒置した形は、ヘンな感じですが、話し言葉ではこのぐらいの順番の変化はしばしば見られますね。



「よろしくどうぞ」はテレビ業界・音楽業界では、よく聞かれるような気がします。音楽の世界では、言葉を倒置した「ズージャ」(=ジャズ)「ヒーコー」(=コーヒー)「シーメ」(=めし)といった「サカサマ語」がよく使われますが、もしかしたら「よろしくどうぞ」もそういった倒置語の一つなのかもしれません。それとも英語の「please」の訳語としての「どうぞ」が、「please」と同じような使い方が出来ると考えられて倒置されたのでしょうか?疑問は深まるばかりです。

答えがわかった方は是非ご一報ください、よろしくどうぞ。

2001/5/27

(追記)

福井大学の岡島助教授が主宰するインターネット掲示板「ことば会議室」で、1997年10月から1998年1月にかけて、この「よろしくどうぞ」が「気になる言葉」として取り上げられていました。それによると、1970年(昭和45年)頃から聞かれるということで、コメントを寄せた大阪外国語大学の小矢野哲夫教授によると、小矢野先生が学生時代(1970年前後)、神戸に下宿していた時に、下宿のおばさん(当時70歳代、香川県丸亀市出身、岡山県在住を経て日本女子大学卒)が使っていたそうです。

私も以前からこの「よろしくどうぞ」を耳にしたことはあったのですが、そんなに前からあるとは知りませんでした。

2001/6/15

(追記2)

「タクシー業界用語辞典」というサイトを見ていたら、「よろしくどうぞ」が出てきました。このサイトは、東京のタクシー運転手の方が書いているようです。
それによると、「よろしくどうぞ」は、
「ヤバそうな客を乗せた時に、無線で通信するSOSの暗号。」
なんだそうです。えー、そんな意味が込められていたとは!ほかにも「センターから連絡A」は「警視庁からの指名手配」の意味、「センターから連絡B」は「警視庁からの車両手配」のことだそうです。業界用語もいろいろあるんですねえ。
2005/4/13


◆ことばの話311「勝敗はつきませんでした」

またまた、メジャーリーグに関する話題。マック鈴木投手が3回を無失点に押さえる好投を見せたものの、勝ち投手にも負け投手にもならなかったというニュースを、「あさイチ!」という番組のスポーツコーナーで、こう読みました。



「3回を無失点に押さえたものの、勝敗(しょうはい)はつきませんでした。」



すると、たまたまその放送を見ていたスポーツ担当のYアナが、こう言ってきました。



「道浦さん、あの"勝敗"てのは、"しょうはい"じゃなくて、慣例で"かちまけ"って読みますよ。"かちまけ"はつきませんでした、ですよ。慣例ですけどね。」



おお、王たこに教えられ・・・ではなく負うタコ・・・・ウウンン、「負うた子の教えられ」とは、このことでしょうか!

確かにそうですよね、「勝敗(しょうはい)がつかない」と読んでしまうと、試合が「引き分け」のようにも感じますしね。投手本人の個人成績としての勝敗の場合は、漢語=音読みの「しょうはい」よりも、訓読みの「かちまけ」と和語で言った方が良さそうですね。 この勝負、「かちまけ」はハッキリしているようです。

(おまけ)

その日の夜、TBSの「ニュース23」で小倉弘子アナウンサーが、「3回を投げて勝敗はつきませんでした。」と読んでいました。同じ間違いですね。

2001/5/27

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