◆ことばの話270「ヤコブ病」

自民党の中川昭一衆議院議員が4月14日、北海道帯広市内で、教科書問題をめぐる報道機関に対して、

「ヤコブ病で脳がスポンジ状態になっていて思考が停止している」

という主旨の発言をしたという記事が、18日の新聞各紙に載りました。この発言に対して、薬害ヤコブ病訴訟の原告団は、発言の撤回と謝罪を求める抗議文を提出、中川議員も謝罪コメントを出しています。

中川議員の軽率な発言は、その責任を問われてしかるべきですが、ここで一つ考えなくてはならないのは、

「悪口を言うときに、病気をその"例え"に出してはならない」

ということです。批判や非難、悪口を言うときには、直接的ではなくて婉曲に言うため(?)か、比喩を使うことが確かにありますが、比喩に使われた"病気"で苦しんでいる人たちにとって、それは耐えられないことです。

患者を思いやる、病気の人の立場に少しでも立とうと考えたら、"公の場で病気を比喩に使うことがいかに軽率か"わかると思います。

これまでにも「エイズ」や「アルツハイマー」など、新しくて(そのために)なかなか治療法が確立していない病気は、そういった"比喩"に使われることがありました。

「ガン」もそういった一つですが、その歴史が古いためか、比喩に使ってもそれほど抵抗はないようにも受け取れます。もちろん、言われた人は嫌でしょうが。「風邪」なんかはあまりにも一般的なためか、比喩には使われません。「あいつは組織の"風邪"やなぁ」なんて聞いたことがありません。

あまり新しくなくて、それほど重篤な病気でもなくて比喩に使われるのは「盲腸」でしょうか。

今回、クロイツフェルト・ヤコブ病の関係者は、まったくのとばっちりを受けたわけですが、中川議員も報道機関に対してモノを言う時は、おかしな"比喩"など使わずに、ストレートに批判をすれば良いのではないでしょうか。

2001/4/24


◆ことばの話269「丁字路」

突然ですが、皆さんは「直角に交わった三叉路」のことを何と呼びますか?

・・・そう、「T字路」ですよね。私も生まれてからずーっと去年ぐらいまで30数年間

「T字路」だと思い込んできました。ところがっ!!

辞書を引いてみると、「広辞苑・第五版」(岩波書店)では「T字路」は載っていなくて、代わりに載っているのは「丁字路」なのです。どこが違うって?アルファベットの「T」ではなくて漢字の「丁」なのです。読みは「ちょう」ではなくて「てい」、つまり「ていじろ」です。

このことばは当然、その三叉路の形から呼び名がきていると思うのですが、アルファベットより漢字の方に親しみがある世代の人は「丁字」と見て「丁字路」=「ていじろ」と名づけたのでしょうが、その後、アルファベットに親しみのある・・・と言うよりも「Tシャツ」になじんでいる世代は「T字路」=「ティーじろ」と呼び習わしてきたと思うのです。これは形も似ていますが、呼び名も大きい「い」か、小さい「ィ」で長音で伸ばすかの違いで、気づきにくいと言うこともあったのでしょう。ウン?そうすると、「Tシャツ」も、「丁(てい)シャツ」と思っている人もいるのかな?まさか!?関西の年配の方の中には、「Tシャツ」を「ていシャツ」と呼ぶ人もいますが。

ほかの辞書はどうか?と思って調べてみると、「新明解国語辞典・第五版」は見出しは「丁字」でその中に「丁字路」という小見出しがあり、その意味の中に「T字路」という文字も見えます。「岩波国語辞典・第六版」には、「広辞苑」同様、「T字路」はまだ載っていません。 「新潮現代国語辞典第二版」も「丁字路」はあっても「T字路」は載っていません。

「T字路」を見出しにしている辞書はないのか?というと、ありました。この3月1日に第五版が出版された「三省堂国語辞典」。これにはしっかり「T字路」が見出しで出ています。ただし、意味は「丁字路」となっていて、「丁字路」を引くと、「丁の字の形になった道路。T字路」となっています。せっかくだから、「T字路」のところの意味として「アルファベットのTの字の形になった、直角に交わる三叉路」としてはどうでしょうか。

「三省堂国語辞典」担当の方にお手紙を差し上げておきましょう。

同じように中学時代から「T(ティー)定規」だと思っていたものが、辞書の中ではまだ「丁(てい)定規」となっているようです。(「T定規」で載っているものもあります。)

今、第二版が順次配本されている「日本国語大辞典」(小学館=3月末で、全13巻中、4巻まで刊行)では、一体どういう記述になっているのか、楽しみです。

(1981年刊行の第一版縮刷版では、「丁字路」しか載っていませんでした)

2001/4/24

(追記)

毎日新聞校閲部・編「新聞に見る日本語の大疑問」(東京書籍1999・5・25)「チョー字路と覚えよう」(1997・6・12)というコラムが載っていました。これを書いた上田泰嗣記者は、生まれてからずっと「T字路」だと思っていたのに、先輩記者から「Tじゃないぞ、テーはチョーだからね」と言われて、目から鱗が落ちた、周囲の三十代の友人に聞いてもみんな「T字路」と思っているというものでした。やはりね。

2001/10/25
(追記2)

遅れ馳せながら『日本国語大辞典・第二版』を引いてみました。

すると、「ていじろ(丁字路)」の項に、

『(現在は「T字路」と書くことが多い)丁字形に交差している道路。』

と出ていました。見出し項目には挙げていないものの、「T字路」が認められたと考えて良いのではないでしょうか。

2002/4/25
(追記3)

2004年1月5日の読売新聞の社会面に大阪府藤井寺市での「車激突、炎上事故、男女死亡」の記事が載っていました。その中に、 「調べでは、レストランはT字路の突き当たりにあり、付近にブレーキ痕がないことから」 という一文があって、そこで「T字路」が使われていました。
2004/1/8
(追記4)

2009年10月19日の朝日新聞に、
「暴走 絶望の丁字路」
という見出しが。アメリカ・サンディエゴで自動車が暴走、時速190キロでジグザグ運転を8キロも続けて、4人が死亡した事故の記事が載っていましたが、そこでは、T字路」ではなく、
「丁字路」
が使われていました。でも・・・これって、事故現場はアメリカですよね。それなら「丁」という漢字ではなくて、アルファベットで、
T字路」
でもよかったんじゃないかなあという気がしました。
2009/10/19


◆ことばの話268「ご懐妊」

雅子さまにご懐妊の兆候!

明るいニュースは良いですね。それにつけても思い出すのは、おととしの年末の出来事。

今度こそ無事にお子様が生まれると良いですね。

さて、言葉の話に戻ると「ご懐妊」です。

前回は、「朝日」「毎日」「日経」の3紙が「懐妊」と「ご」がつかない形で、「読売」「産経」の2紙が「ご懐妊」でしたが、今回はちょっとだけ違います。

「ご」のつかない「懐妊」は「朝日」「毎日」の2紙で、「ご懐妊」は「読売」「産経」に「日経」が加わり、3紙となりました。形勢逆転です。中でも「産経」は他紙が4月16日の夕刊で伝えたのに対して、1日後れの4月17日の朝刊で伝えました。おそらく、雅子様、東宮一家、皇族への配慮でしょう。

それにしても、前回「ご」がつかなかったのに今回「ご」がつくようになった「日経」は、どんな変化があったのでしょうか?

もしかしたら、長引く不況に嫌気がさして、今度の「ご懐妊」がベビーブーム呼んで、経済状態がググッと盛り上がってくるための呼び水になって欲しい!!と強く願って「ご」をつけたのかもしれませんね。

「風が吹けば桶屋がもうかる」ではありませんが、とにもかくにも、12月には元気な赤ちゃんが産まれることを、同世代としても強く願います。

2001/4/21


◆ことばの話267「見せるか、見させるか」

3年前、東大阪市のカラオケボックスで、当時19歳のアルバイト店員の女性が殺され、売上金4万円が奪われるという事件がありました。その事件の被告の控訴審判決が、4月11日、大阪高等裁判所であり、一審どおり無期懲役の判決が言い渡されました。

この裁判では、去年10月の第1回公判時から遺影の持ち込みが許可されています。このニュースを伝える女性記者が、ニュース本番直前に、こう聞いてきました。

「道浦さん、"見せる"ですかね?それとも"見させる"が正しいんですかね?」

「??どういった文脈??」

「遺族のインタビューにスーパーをかぶせるんですけど、お父さんが判決の様子を"娘(の遺影)にじっくり見さしたい"とおっしゃってるんですけど、スーパーは"見させる"のままでいいんでしょうか、それとも"見せる"でしょうか?」

うーん、と考えました。「見せたい」あるいは「見せてやりたい」のほうがすっきりしていますが、「見さしたい」もなんとなく気持ちが伝わって、それでも良いような気もします。

「見る」という上一段・自動詞の他動詞型がは「見せる」。「見させる」は、「見る」十「使役の助動詞"させる"」で、ともに文法的には間違っていないと思います。また「見さしたい」は、「見さす」からきていて、なんか、関西弁ぽく感じます。結果から言うと、遺族の方がおっしゃっていたのとは違って「娘にじっくり法廷を見せたかった」とスーパーを出したんですが、その後もう一度いろいろ考えてみました。

「見せる」はAさんがBさんに直接「見せる」行為を行うことをさしますが、「見させる」はAさんがある意志をもってBさんに「見せる」行為で、この場合、Bさんがそれを「見たいか見たくないか」という意志に関係なく行われます。ちょっと「無理矢理」という感じがします。

もうひとつ言うと、「見せる」はAさんが直接、物を出してBさんに「見せる」。「見させる」はAさんではない人が出した物を、Bさんに「ほら、あれ」というふうに悟らせて「見させる」。

「見させる」の方が「見せる」よりも「相手にさせる」と言う感じが強く思えるのはやはり「〜させる」という「使役の助動詞」の意味合いが表に出てきているからではないでしょうか。

さらにその後ろに「〜やりたい」という言葉がついていれば、Aさん側のBさんに対する「Bさんのためになるようにと思って」という「思い」がこもっています。それを判断した上で「見せてやりたい」なのか、「見させてやりたい」のかを考えると、「見させてあげたい」に多少分があるかのように感じます。

本来なら、本人が亡くなっているので、裁判の様子・判決の様子はもう「見せる」事は出来ないのですが、及ばずながら(?)「遺影」という形で「見せる」。この行為は「見させる」に、そして、理不尽な死を迎えてしまった娘に対して、せめて、判決の模様を「遺影」を通じて・・・という思いは「やりたい」の部分に、全体としては「見させてやりたい」に集約されているのではないでしょうか。

「見せる」と「見させる」は、本来の使われている分野(フィールド)が異なるのですが、一部、同じ意味で重なる部分がある為に、今回のような場合には、どちらを使うのか?と言う問題が生じるのでしょうね。

2001/4/21


◆ことばの話266「中年」

去年の話になりますが、ある時、ニュースでこういった表現が出て来ました。

「男は、35歳ぐらいの中年で・・・」

えっ?35歳で中年?ちょうどその年代にピタリと当てはまっている30代後半の私としては、見逃す訳には行きません。

「中年とは一体何歳からを言うのか?」

を調べてみる気になりました。

「お年寄り」「老人」に対しては、こういった論議は時々起こりますが、「中年」に関してはあまり聞いたことがありません。

ちょうどたまたま、神戸の女子大生たち(19、20歳)120人に聞く機会があったので、「あなたたちにとって"中年"とは、何歳から何歳ぐらいを言うのか?」というアンケート調査をしてみました。

その結果、彼女たちにとっての"中年"は、「37.1歳から52.4歳」、その範囲の平均を取ると、「ザ・中年」は「44.8歳」ということになりました。

一番「若い中年」の認識は「28歳」から、一番年配の中年は「60歳」という結果が出ました。なんと幅の広いことでしょう!

ただ、中には「人によって違う」という声もありました。確かに個人差はありますからね。けれどそれは見ための話であって、本来はきちっとした実年齢での基準がないと行けないのじゃないかな。

辞書にはどう載っているのでしょうか?

「広辞苑・第五版」(1998、11、11発行)には、

「青年と老年との中間の年頃。40歳前後の頃。壮年。」と載っていて、例文は「中年太り」。

結構若くから「中年」にしています。これに対し、

「新明解国語辞典・第五版」(1997、11、3)は、

「人を年齢によって分けた区分の一つ。五十代の半ばから六十代の前期にかけての年。」

例文は「中年ぶとり」。

「三省堂国語辞典・第五版」(2001、3、1)は、

「人を年齢によってわけた区分の一つ。四十歳ぐらいから五十歳のなかばぐらいまで。」例文は「中年期・中年ぶとり」

と、同じ三省堂が出している辞書なのに、年齢の幅が明らかに違います。

また、「日本語大辞典」(1989、11、6)には

「四十歳前後の年齢。壮年。」

と載っています。広辞苑とほぼ同じと見てよいでしょう。

このように辞書によっても「中年」の年齢に、ずいぶん開きがあるのです。

思うに、若い頃は少し年齢が上の人を見ても「ずいぶんおじさんだ」と思ったものですが、実際その年齢になると、「若い頃とあんまり変わらないなあ。まだまだ若いよなあ。」と思うものです。

だから、20歳前後の若者が考える「中年」と、30前後の人が考える「中年」、40代の人が考える「中年」、50代の人が考える「中年」は、すべて違ってくるのではないでしょうか?

その中での最大公約数の年齢をとって「中年」としないと、聞いた人にとっては、違和感を覚えることになるかもしれません。

また、高齢化社会の進行によって、「中年」の年齢が平行移動しているということもあるかも知れません。

また、「中年」と同じ意味の「壮年」があまり最近使われていないように思います。「壮年」はそれほど悪いイメージはありませんが、「中年」は、辞書の例文にもあるように「中年ぶとり」というようなマイナスのイメージを持った言葉といえます。「壮年ぶとり」とは言いません。「壮年」は太らないのです。というより、ぶくぶく太った人を「壮年」とは呼ばないのです。

高齢化社会の進行に伴い「老年期」が伸び、元気なお年寄りも増えてきたことで、壮年(中年)と「老年」の中間の「熟年」という言葉が定着しました。これはそもそも広告代理店が作り出した言葉だそうですが、そろそろ、手垢のついた「中年」に変わる、元気のよい言葉が生まれて欲しいものです。そのためには「中年」が頑張らねば!!

2001/4/21
(追記)

去年読んだ「中年って何?」(光文社)という本が本棚から出てきたので追記します。サブタイトルは「団塊の世代はこれからどう生きるか」。著者の三田誠広さんは、1948年(昭和23年)生まれの団塊の世代。去年これを出した時は52歳です。ちなみにタイトルの「中年って何?」は、彼のデビュー作とも言える芥川賞受賞作の「僕って何」の、まあパロディのようなものでありましょう。その中で、

「そもそも中年とは何だろうか。青年と老年の間だから"中年"なのか。でも"壮年"という言い方もある。元気いっぱいの働き盛り、というくらいの意味だろう。壮年と中年は、年齢からすれば同じようなものだが、中年という言葉には、少しくたびれたニュアンスがある。」

と書いています。また、前編を通じて出て来るのは、

「中年とは、"老後をいかに生きるか"を考えるための、モラトリアム(猶予期間)だと考えている。」

という考え方。おいおい、自分一人で考えるのは結構だけど、ちょっとそれはどうかなあ。

大体、中年にもなって「僕って何?」というのは気持ち悪い。「モラトリアム」なんて青年の一時期に、すませておいていただきたい。そんなことを言っていたら、人生生きている間、常に次への「モラトリアム」になってしまって、何もしなくなってしまうのではないか?「団塊の世代特有」かどうかはわかりませんが、少なくとも「三田誠広特有」のこのもっちゃりとした「モラトリアム」を、他の人に勧めるのだけはやめていただきたいものです。1500円も出してこの本を買ってしまった読者からのお願いです。

2001/8/29

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