◆ことばの話180「打ちあがる」

日本時間の10月12日、日本人宇宙飛行士・若田光一さんの乗ったスペースシャトル・ディスカバリー号がアメリカのヒューストン宇宙基地から、発射されました。

その様子を伝えたテレビ各社のリポーターの実況描写で、おやっ?と思いました。



「いま、スペースシャトルが打ち上がりました。



私が見た、日本テレビの池内千香子記者と、テレビ朝日の城川惠記者という二人の女性記者が、期せずして全く同じ表現をしていたのです。

どこが気になったか?もちろん「打ち上がりました」という部分です。

私なら「打ち上げられました。」といいます。

「打ち上がる」という言葉は辞書を引いても乗っていませんが自動詞です。自分からそういう状態におなる、ということです。スペースシャトルが自分の意志で「打ち上がっ」たのでしょうか。

これに対して、「打ち上げる」は他動詞です。辞書にも載っています。スペースシャトルを、NASAのスタッフが「打ち上げる」のです。

シャトルが発射されて空中に浮き上がった状態だけを指せば、「あがった」と言っても良いでしょう。でもそれなら、「打ち」の存在はどうなる?そうです、この言葉は複合動詞だったのです。つまり、「打つ」と「上げる」という二つの動詞が一つにくっついて出来た、一つの動詞です。このうち「打つ」の方の主体はこの場合NASAです。「上げる」のもNASAです。ところが「打ち上がる」とすると、「打ち」の方の主語はNASA,「上がる」の主語は、スペースシャトルになってしまい、一つの複合動詞の主語に"ねじれ"が生じてしまいます。あえてスペースシャトルを主語にするのなら、「打たれ上がる」にしなければならないでしょう。

実際に発射された後、グングン上昇しているシャトルを表現するのには「上がった、上がった」で良いでしょう。「上げられた、上げられた」では逆に不自然です。 理屈はそういう事だと思うのですが、彼女たちはなぜ二人揃って「打ち上がりました」と言ってしまったのでしょうか?

思うに、「打ち上げる」という言葉が「打つ」と「上げる」という二つの動詞から出来ている複合動詞だという意識が希薄だったんじゃないでしょうか。だから「打つ」の方の意味まで考えず、語尾(後ろ)のほうの動詞の「上げる」を、自動詞化して「上がる」としても、何ら語感に違和感を覚えなかったのでしょう。そして、またシャトルを打ち上げる主体がNASAであることを、もちろん知ってはいるのでしょうが、ことばの上で表現しようという意識が希薄だったのではないでしょうか。

これは女性に特有なのか、若い人(どちらの女性記者も20代後半くらいに思えました。)に特有なのか、それともたまたま、偶然に二人だけが同じ表現を使ったのか、そのあたりはわかりません。しかし、読売テレビの30代前半の女性アナに「打ち上がるって、どう思う?」と聞いたところ「自分で言うなら、打ち上げられましたというでしょうけど、打ち上がりました、を聞いていて、別におかしいとは思いません。」と答えたので、若い女性に共通なのかもしれません。あっ、彼女はつい1ヶ月前に、1年間のアメリカ留学から帰って来たばかりですから、アメリカに住む若い女性の間では、客観的な表現(?)として「打ち上がる」という言い方が流行っているのかもしれません。(そんな事はきっと、ないと思うが。)

目の前に見えるシャトルが発射された様子を、その背景を交えることなく「上がった」と表現してしまっては、スペースシャトルも凧もあまり大差ありません。(凧はもちろん「上がった、上がった」で良いのです、いくら苦労して作ったり買ったりしたとしても、その背景に配慮して「凧が上げられた、上げられた」という必要はありません。)

ただ一旦発射された後は、「(シャトルが)力強く上がっていきます。」(池内千香子記者)でもよいと思います。この場合はシャトルが擬人化されていると考えてよいでしょう。といったところで、この原稿も「打ち上がり」いえいえ、「打ち上げ」です。

2000/10/12

(追記)

その後、NHKの現地のそれほど若くない、男性記者も「打ち上がった」と言っていたのを聞いた人がいました。それで考えたのですが、、もしかしたら専門家の間では「打ち上がった」という言い方をしているのかもしれない。

いつものようにインターネットの検索ページで「打ち上がる」と「打ち上げる」を検索してみました。すると「打ち上げる」は「4万件以上」あり、それ以上詳しい数字は出てきませんでした。それに対して「打ち上がる」は・・・2010件ありました。4万件以上に比べると少ないですが、それでも2010件。結構使われているんですね。その柄われ方を見てみると、(全部見た訳ではないですが)「花火」に関する物が多かったです。つまり「花火が打ち上がった」という感じの文章です。面白い物では「宇宙葬」についての文章。「宇宙葬」というのは「(故人の)遺灰を人工衛星に乗せて打ち上げる」葬儀の方法だそうです。ホントに今やってるのかな。

とまれ、近い将来、「打ち上がる」の方が普通で「打ち上げる」が、古い言い方になる日がやってくるかもしれません。

ちなみに、この「打ち上がる」問題と全く逆のケースが「立ち上げる」。「コンピューターを立ち上げる」「プロジェクトを立ち上げる」も「立ち上げる」です。この「立ち上げる」については、人が「立ち上がる」は自動詞としてOKだけど、他動詞として無理矢理「立ち上げる」のは語感がなじまないという人が、年配の方を中心として多いようですが、もうすっかり定着したようです。私も時々使ってしまいます。

2000/10/18

(追記2)

今年(2001年)の天神祭の船渡御の番組で、大阪弁が得意(?)な、NHKのTアナウンサーが、
「花火が打ちあがっていますが・・・」
と言ってました。だいぶん、一般化してきたんでしょうね、この「打ちあがる」。

2001/7/26

(追記3)

2005年7月26日(日本時間の午後11時39分)、日本人宇宙飛行士・野口聡一さんを乗せたスペースシャトル・ディスカバリーの打ち上げが成功しました。その様子を伝えた、7月27日テレビ朝日のお昼のニュースで、瀬口大介記者が、
「ディスカバリーが打ちあがりました」
と伝えていました。

2005/7/27
(追記4)

2005年10月21日、テレビ朝日のお昼のニュースの一番最後で、山口 豊アナウンサーが、
「今日午前、神奈川県の海岸に、クジラが打ち上がっているのが見つかりました。」
とニュースを読んでいました。原稿に書いてあったのか、咄嗟にコメントしたのかはわかりませんでしたが。これはやはり、
クジラが打ち上げられているのが見つかりました」
とすべきところでしょうね。

2005/10/21
(追記5)

10月25日、甲子園で行われた日本シリーズの中継で、朝日放送のアナウンサーが、
「銀傘の上に打ち上がっています。」
と言っていました。

2005/11/9
(追記6)

7月17日夕方6時台のNHKラジオ第一放送で、防衛大学の先生が、
「海岸に打ちあがったゴミ」
と言っていました。もともとは海岸線の専門家だったのに、海岸線を調査するうちに、あまりに漂着ゴミが多いので、その調査をするようになったというお話でした。
2006/7/20

(追記7)

2004年8月10日の関西テレビの『スマイル』というミニ番組を見ていた時のこと。
花火『鍵屋』の十六代目・天野安喜子(あきこ)さんを取り上げていたのですがその中で、
「花火が打ち上がらなくても」
というフレーズが出てきた・・・というメモが出てきました。花火屋さんの間では「打ち上がる」は使われているのかもしれませんね。
2006/10/31
(追記8)

11月21日の日本テレビ「ニュースゼロ」で、札幌テレビからのニュースで、北海道・知床でサンマが大量に、
「打ちあがっている」
と伝えていました。11月15日のオホーツク沖地震・津波との関連はどうなんですかね?
花火やロケットだけでなく、サンマも「打ちあがる」んですね・・・。
2006/11/23
(追記9)

2008年4月30日の朝日新聞夕刊の「環境・エコロジー」の欄で、
「深海魚をむしばむプラゴミ」
という記事が。山本智之さんという記者の署名記事です。その中に、
「学習会に使うミズウオは、浜辺に打ち上がったものを博物館で冷凍し、保存しておいたものだ」
「打ち上がった」を使っていました。
2008/6/10
(追記10)

『闘う楽しむマンション管理』(水澤潤、文春新書)という本の中に、
「滞納管理費が根雪のように積み上がっているある世帯が」
というふうに、
「積み上がる」
という表現が出てきました。「積み上げる」ではなく。「他動詞+自動詞」です。
2008/10/15

(追記11)

日本時間の2009年3月16日月曜午前8時43分若田光一さんを乗せたスペースシャトル「ディスカバリー」の打ち上げが行われました。今回はなんと、5度も打ち上げが延期された末のこと。この様子を実況していた日本テレビの男性記者が、
「打ち上がりました!」
と言っていましたが、「ミヤネ屋」では、字幕スーパーで
「打ち上げられました」
として放送しました。(音声は、そのままですけど)。
2009/3/16



◆ことばの話179「ニジューニーテン・ゴーゴー」

突然ですが、皆さんは「22、55」という数字をどう読みますか?

「ニジューニーテン・ゴーゴー」と読む人が多いのではないでしょうか。

いや、私は「ニジューニテン・ゴーゴー」だ、という人も中にはいらっしゃるでしょう。えっ、どう違うかって?

よく見て下さい、「テン」の前の「ニ」を伸ばすか伸ばさないか、ということなんです。

私は会社に入るまで、つまりアナウンサーになるまでは、ずっと伸ばして「ニジューニーテン・ゴーゴー」と言っていました。しかし、研修の時に「アナウンサーは伸ばさないんだよ。」と教わりました。ほほう、さすがプロは違うんだなあ、と思っていたのですが、よく気をつけて他社のアナウンサーの読むのを聞いていると、伸ばす人と伸ばさない人がいます。特に最近はほとんどの人が伸ばしているのではないでしょうか。

先日の新聞用語懇談会の放送分科会でも、「伸ばす・伸ばさない」の話が出ました。その時に私は「それにしても、"1、2、3"と数える時の"2"は"ニ"なのに、なぜ"ニー"と伸ばすんだろうか?」と考えるきっかけを得ました。

どうもこれはリズム、つまり拍と音節に関係があるのではないかとにらみ、8分音符を使って、それぞれのリズムを書き取ってみました。すると、「伸ばす方」は、

「○・ニ・ジュ・―/ニ・―・テ・ン/ゴ・−・ゴ・−」(○は8分音符1個分、休む)

裏の拍から入って、「ニジューニーテン」までが8拍、そして「ゴーゴー」が4拍、つまり「ウ・タタタ・タタタタ・ターター」というふうに感じられます。8分の4拍子ですね。

これに対して、「伸ばさない方」は「ニ・ジュ・ー/ニ・テ・ン/ゴー・ゴー」となり、前半の「ニジューニテン」は、8分の3拍子、後半の「ゴーゴー」は8分の4拍子(あるいは4分の2拍子)で、「タタン・タタン・タンタン」といった感じの変拍子になってしまいます。もし1拍目を休みにすると「○・ニ・ジュ・−/ニ・テ・ン/ゴ・−・ゴ・ー」で8分の4→8分の3→4分の2(あるいは8分の4)となり、よけい難しいリズムになってしまいます。

このあたりに「変拍子」に慣れていない日本人にとっては、なじまないんじゃないでしょうか。

たまたま今日読んでいた「日本語研究所」城生(=じょうお)はく太郎・・・"はく"は人偏に百と書きます・・・著(日本実業出版社刊)と言う本の中にこれに関連するようなことが書かれていたので、写します。



"「俳句は五・七・五ではなく八・八・八」

我が国では音数律をもとにして、五・七・五のような音節の数で決まった詩や標語が作られています。しかし、時々字余りのものが出てきます。「赤信号みんなで渡れば 怖くない」などというのがそれです。。「ア・カ・シ・ン・ゴ・−」というのは六、「ミ・ン・ナ・デ・ワ・タ・レ・バ」は八、「コ・ワ・ク・ナ・イ」は五ですが、六・八・五というのは、どうもヘンです。しかし目くじらを立てる前によく考えてみると、六・八・五でも、「静かさや岩にしみゐる 蝉の声」の五・七・五と比べて、それほど遜色はないと思います。それではなぜ、六・八・五でも、五・七・五でも、それほど違うようには感じられないのでしょうか。

結論を先にいいますと、六・八・五や五・七・五といった数え方では、休みというものを勘定に入れていないのです。たとえば、三三七拍子を例にとって考えてみましょう。休みを○で示すと、「チャッ、チャッ、チャッ、○、チャッ、チャッ、チャッ、○」、これで八拍になります。後半は「チャッ、チャッ、チャッ、チャッ、チャッ、チャッ、チャッ、○」でやはり八拍になります。


つまり、八・八・八・・・のように八を単位にして、日本語のリズムは進んでいくのです。

そうすると、「赤信号」も「静かさや」も、実は同じ八・八・八であることがわかります。

これを検証してみると、次のようになります。

アカシンゴー○○

ミンナデワタレバ

コワクナイ○○○

これを三三七拍子のように、手を叩きながらいってみるとよくわかります。

また、「静けさや」の句も次のようになります。

シズケサヤ○○○

○ イワニシミイル

セミノコエ○○○

日本では七五調のリズムが基本であると教わってきましたが、これを読んで思いを新たにした人も多いのではないでしょうか。"




という文章を見つけたのです。

これは我が意を得たり!という感じです。城生先生はこの本の中で、

「日本語のリズムは基本的に四拍子からなっています」

とも書いています。やはり変拍子は、なじまないのですね。

それを裏付けるべく、家の本棚にあった「日本の唱歌(上)明治篇・金田一春彦・安西愛子編(講談社文庫)」に載っていた163曲について調べてみました。

それによると、163曲中、ほとんどは4分の4拍子か8分の4拍子、あるいは4分の2拍子で、それ以外の4分の3拍子か8分の6拍子という"3拍子系"のものは、わずかに20曲しかありませんでした。また、そのうち、外国の曲(民謡や外国人が作曲したもの)が12曲ありました。また、作曲者未詳(わからない)ものが2曲。その中には「あおげば尊し」も含まれます。結局、日本人が作曲したものはたったの 6曲だけ。やはり、明治11年から45年という時代において(あるいはそれ以前に)3拍子系のリズムは、日本人の中になかった、といっても良いのではないでしょうか。

ちなみに、その6曲の曲名は「港」(吉田信太作曲)、「美しき天然」(田中穂積)、「妙義山」(田村虎蔵)、「二宮尊徳」(田村虎蔵)、「敦盛と忠度」(田村虎蔵)、「昼」(弘田竜太郎)です。私が知っているのは「港」と「美しき天然」の2曲だけ。「そーらーも、みなとーも、よははーれーてー」と「ターラ、ラララ、ラーララー、ラララ、ラーララー」という、サーカスの客寄せのシーンでよく耳にする曲ですね。金田一氏によると、「日本人の手によって作曲された最初のワルツ曲」だそうです。

よく、欧米は3拍子=ワルツができるのは狩猟民族で馬に乗っていたから、日本人は農耕民族で畑を耕す動きは「ヨイショ、ヨイショ。」と2拍子なので、頭の拍のが強い2拍子が得意。ヤーレン、ソーランソーラン、ソーラン、ハイ、ハイ!となるのだ・・・などといわれますが、確かにそうなのかもしれません。

1から10まで数える時も「いーち、にーい、さーん、しーい、ごーお、ろーく、しーち、はーち、きゅーう、じゅう」というふうに、知らず知らずのうちに2拍づつにしています。2と5は「に」「ご」と短いので、他とのバランスを取る意味で伸ばしているのかもしれません。

一応、これで謎は「解けた!」事にしておきます。

また、新たなご意見のある方は、メール下さいね。(2000、10、12)

2000/10/12


◆ことばの話178「青ナンバーと緑ナンバー」

今日(10月3日)のお昼のニュースで、運輸業の許可がないいわゆる「白トラ」業者にウソの名義で新車登録をして販売していた神戸市の自動車販売店が警察の捜索を受けたというニュースがありました。この中で、

「運輸大臣からの許可を受け、通常青いナンバープレートの車両を使用することが義務づけられています。」

という一文がありました。これについて、小城アナウンス部長が引っかかりました。

「普通、営業車は緑のナンバープレートをつけているんじゃないか?」

そう言われればそうです。タクシーなどがつけているナンバープレートも、緑地に白抜きの文字が書かれたプレートです。あの地の色は、どう見ても「緑」で、「青」ではありません。

「けど、緑色でも"青信号"っていいますからね。それに日本には昔は緑という色の名前はなかったから、"緑"も"青"と読んでいたから、その名残じゃないですか。ほら、緑なのに"青葉"とか。」

「うーん、そうかなあ・・・。」

ということになって、少し調べることにしました。インターネットの検索エンジンYAHOOで「青ナンバー」と「緑ナンバー」で検索してみました。すると、「青ナンバー」が9件、「緑ナンバー」が19件。つまりあのナンバープレートを「青」と言う人と「緑」と言う人がいるのです。その割合は、このYAHOOによれば1:2。「緑ナンバー」という人の方が多いことになります。

おなじく検索エンジンINFOSEEKでは、「青ナンバー」が174件、「緑ナンバー」が330件。やはり、1:2の割合です。

そのインターネットで検索したうちの一つのホームページから、ネットサーフィンして、業界団体である日本トラック運送協会に、実際の使用状況はどうであるのか、メールを出してみました。

すると、すぐ翌日に広報部の方から返事が返ってきました。それによると、



「道路運送車両法によって、自動車登録番号表(ナンバープレート)の塗色は、事業用自動車にあっては緑地に白文字とし、自家用自動車にあっては白地に緑文字とする」と定められています。だからご質問の青色(青ナンバー)との表現は使いません。世間一般においても、"緑ナンバー""白ナンバー"という表現が使われます」



ということでした。つまり業界では「青ナンバー」は使わないと言うことです。でも実際には「青ナンバー」も使われているんだよね。

逆に、信号の場合は「赤・青・黄色」という呼び方が定着しているために、実際の信号機の方が昔の「緑」から最近は「青」っぽくなってきているような気がしますが、いかが?

2000/10/4


◆ことばの話177「雨不足」

関西は雨が降りません。

7、8月の降水量は、例年の4分の1。明日(9月9日)からはいよいよ、6年ぶりに琵琶湖の10%取水制限が始まります。ニュースでも連日、水不足の話題が報じられています。

その中で登場したのが「雨不足」という言葉。「水不足」はすんなり耳に入りますが、「雨不足」はなぜか引っかかります。これは私だけではなくて、植村アナウンサーもそう感じているようでした。

なぜ「水不足」はよくて「雨不足」はダメなのか?

思うに「水不足」は「水」が足りない、不足しているという状況で、水の不足を補うのは節水するとか、人間の意志によって何とかできるものです。「〜不足」という単語で思いつくものとしては、 「力不足」「資金不足」「役不足」「寝不足」「練習不足」「カルシウム不足」「人手不足」など、人間が何とかしようとすれば何とかなる種類のものです。

しかし「雨」が少ないのは、(人工降雨のようにお金がかかって狭い範囲でしか出来ないものを除くと)ほとんど自然任せ、まさに「自然の摂理」「神の意志」まかせのもの、と考えます。(特定の宗教を信じているというのではなくて。)

この種類の言葉(「雨」のような)に「〜不足」をつけてみても、言葉として成り立ちません。試しにつけてみましょうか。晴れた日が少なくても 「晴れ不足」とはいわないし、

もちろん「雷不足」「風不足」とも言いません。ヘンでしょう?これ。

ただ「雪不足」は、なぜか耳になじんでいるような気がします。これもきっと、「雪」は人間の意志である程度何とかなるものだからじゃあないでしょうか?人口スキー場もあることだし。

そういった意味で、その「雨」に対して「不足」という言葉で不満を訴えるのは「不謹慎」に思われるのではないでしょうか。人間の力でどうしようもないことに対して「不足」という言葉は、何か似つかわしくないということです。

おわかり頂けましたか?えっ?わからない?・・・それはこちらの「説明不足」「努力不足」ですね、きっと。それともあなたの「理解力不足」?

2000/9/8


◆ことばの話176「耳ざわり」

「耳ざわり」という言葉は、従来このように使われてきました。

“電車の中での携帯電話の声は、耳ざわりだ”

この場合、漢字は「耳障り」と書きます。つまり、耳に障りがある、雑音だというわけ。

ところが最近は、

“その音楽は耳ざわりが良い”

などという使い方が増えているようです。この場合の漢字は「耳触り」と書きます。

おそらく「肌触り」「歯ざわり」「舌触り」「手触り」からの連想で、「耳触り」という言葉が生まれたのでしょうが、もともとは「みみざわり」という音の別の「耳障り」があったものですから、一部の人たちからは「耳ざわりがいい、なんて言葉は本来の意味と違う使い方で、変だ。」という声が聞かれます。

インターネットの検索エンジンであるインフォシークとYAHOOで検索してみると、
  (インフォシーク) (YAHOO)
(耳触り) 977件 80件
(耳障り) 1万457件 327件
(耳ざわり)
996件 81件
(みみざわり) 61件 1件
という結果が出ました。やはりまだ「耳障り」の方が主流ですが、「耳障り」を使いながら「耳触り」の意味で使っているケースもあるかもしれません。ちなみに、「耳触り」の使用例(例文)としては、

「自分らしく生きる、なんて耳触りのいい言葉」「午後の仕事をしながら聞くには耳触りのいい番組です。」「耳触りのいい性善説」「耳触りのいいお追従ばかり聞かされている」「聴きやすく、耳触りがいいって・・・」といった文章が載っていました。

また国語辞典では、「大辞林」「新明解国語辞典」には、「俗用」として「耳触り」は載っていますが、「広辞苑」や「日本語大辞典」は採用していません。(つまり載っていない。)

他の辞書も調べてみました。その結果を整理すると、

(“耳触り”を載せていた辞書)5冊

・ 「日本国語大辞典(小学館)縮刷版」1981年

・ 「国語大辞典(小学館)」1982年

・ 「新明解国語辞典・第3版(三省堂)」1985年

・ 「辞林21(三省堂)」1993年

・ 「大辞泉(小学館)」1995年



(“耳触り”を載せていない辞書)8冊

・ 「新訂・大言海(冨山房)」1963年

・ 「新明解国語辞典・第2版(三省堂)」1978年

・ 「角川国語大辞典(角川書店)」1982年

・ 「広辞林・第6版(三省堂)」1984年

・ 「学研国語大辞典(学習研究社)」1984年

・ 「岩波国語辞典第4版(岩波書店)」1986年

・ 「日本語大辞典(講談社)」1989年

・ 「広辞苑第5版(岩波書店)」1998年



ここまでのところ、「耳触り」を認めている辞書と認めていない辞書の対決は5対8で、載せていない方がやや優勢です。また「耳触り」を一番早く載せたのは、1981年の「日本国語大辞典(縮刷版)」ということになります。あっ、載せている辞書はすべて「小学館」と「三省堂」のものですね。三省堂は1984年の「広辞林」では載せていないのに、1985年の「新明解国語辞典・第3版」では載せています。このあたりで「何か」があったのでしょうか?



さて。ここから本題に入るのですが、(ここまでも一応本題です。)先日、ご存知、林望著「日本語へそまがり講義」(PHP新書)という本を読んでいたところ、「荷風の憂鬱」という項で、永井荷風の日記随筆である「断腸亭日乗」について書いてあって、

昭和7年(1932)9月16日、天気予報に付いて論じているところがありました。

そこには、

「天気予報の“愚図ついた天気”というのは
いかにも下品にて耳ざわり悪しき俗語なり。

とあったというのです。

リンボウ先生は「愚図ついた天気」なる表現をケチョンケチョンにののしっている永井荷風を紹介しているのですが、この中に「耳ざわり悪しき俗語なり。」という表現が含まれているのをみて私はピーンときました。



「“耳ざわり悪しき”というのは二重否定ではないか?また“耳ざわり悪しき”があるならば、当然“耳ざわり良き”もあるはずで、それはすなわち、口語の“耳ざわりのいい”ではないか。つまり、今から68年前に、既に“耳ざわりのいい”という表現があったのではないか?」



ということなのです。

早速この件について、言葉の問題に詳しい、NHK放送文化研究所の深草耕太郎主任研究員に問い合わせたところ、折り返し、



「非常に興味深く読みました。ただ“いかにも下品にて耳ざわり。悪しき俗語なり。”のつもりではないか、ということです。NHKの去年(1999年)11月の調査によると、“耳触りがいい”という表現はおかしいと感じる人が64%いました。」}



というファックスが届きました。

深草さんの言う通りだとすれば、【1】荷風が句読点を書き忘れた。【2】リンボウ先生が句読点を見落とした。のいずれかということになります。

【1】であれば、今となってはもう確認の仕様がないですが、【2】かどうかは「断腸亭日乗」の原典に当たれば、確認が出来ます。

図書館で調べてみるつもりです、時間が出来れば・・・。報告を、乞うご期待!!

2000/9/1

(追記)

さっそく、図書室に行きましたが、永井荷風の著作であったのは、講談社版の「永井荷風集」の1冊だけ。しかもそこには「断腸亭日乗」の該当部分は収録されていませんでした。インターネットで検索してみると、岩波書店から全集1〜6が出ていたのですが、品切れのものもあり、該当部分がどれになるのかも分かりません。しかも1冊4000円以上するのです。そこで、帰りに会社近くに最近できた比較的大きな書店に寄って「永井荷風の断腸亭日乗はありますか?」と男性店員に聞くと、1,2分コンピューターで検索したあと「岩波文庫から出ているのがありますけど」と言うではありませんか!さっそく「それ、下さい!」と買い求めました。上下巻2冊で1500円なり。安い!

帰りの電車の中で問題の個所をチェックしたところ、間違いなく、

「いかにも下品にて耳ざわり悪しき俗語なり。」と書いてありました。

これで【2】の「リンボウ先生が句読点を見落とした。」というのは否定されました。

次に、永井荷風が句読点を書き忘れたのであって本来、「いかにも下品にて耳障り。悪しき俗語なり。」なのかどうかを確認する手段として、荷風がそういった「体言止め」をよく使う作家であったのかどうかを確かめる必要があります。全部の著作を調べるのは大変なので、この日記の問題の個所、「昭和7年9月16日」を含む「昭和7年」の日記31ページ分について点検することにしました。

その結果、「体言止め」の個所は全部で99ヶ所。そのうち「九月十六日。」といった日付の体言止めが60回。「快晴。」「雨。」のような天気が14回。「〜由。」という体言止めが10回。「〜事。」というのが2回。その他の体言止め表現が13回でした。

この結果から見るに、永井荷風は「いかにも下品にて耳ざわり。」というふうな体言止めを使う作家のようには思えません。もちろん断定することは出来ませんが。そうするとやはり「耳ざわり悪しき俗語なり。」というふうに「耳ざわり」を使っているように思えます。



「耳ざわり」についての情報を得るべく、9月から通っている大阪大学大学院の真田信治教授に聞いてみたところ、「"言語生活"という雑誌に、昭和50年頃"耳触りは耳障り"というようなことが載っていたような気がする。」というお答え。さらに翌日、その該当部分のコピーを頂きました。それによると、1968年(昭和43年)に岡山県勝田郡の額田淑さんという人から

"「耳ざわりのよい音」と山陽新聞1月29日夕刊のレコード案内の見出しに。「強烈な個性を出すというよりも耳ざわりのよい音」と本文中にもちゃんとある。「はだざわり」「舌ざわり」系統の用法のつもりらしいが、「耳ざわり」のほうは不快感が先に立ち、いささかむり。「からだにさわる」などは、さわり方次第で両用の解釈が可能だが。"

という投書が紹介されているほか、

"NHK、政治討論会の席上。某代議士先生「・・・耳ざわりがよいようですけど・・・」二度繰り返していたようであるが、拝聴していた私の方は「耳ざわりが悪」かった。「手ざわりがよい」という表現と同じ使い方ができるのだろうか。"

と(おそらく東京都)北区の安田悦子さんからの文章も載っています。

さらに1971年(昭和46年)にも、

"NHKFM放送(11月7日)で。"メンデルスゾーン作曲ピアノトリオ作品四九・・・軽くて耳さわりのよい音楽です。」はて「耳障(ざわ)り」とは?と思ったが、どうやら「耳触り」のようだ。"

という世田谷区の角田雅則さんからの投書が載っていました。

・・・フーム、もう30年以上前に、この「耳障り」はちまたで使われ始めていたのか。



ところが、実はもっとずっと昔に使われていたという例を、そのすぐあとに発見したのです。真田先生の研究室で、たまたま手に取った「国語辞典にない言葉」(松井栄一(しげかず)著・南雲堂・1983年)という本の中に、こんな記述があったのです。少し長いですが引用してみます。



「日本国語大辞典を買ったという友人から叱責を受けた。このごろ"耳ざわり"の誤用で"耳ざわりがいい"などというのを聞いて、どうも耳ざわりでしかたがない。まさかこの大辞典ではそんな誤用は認めていないだろうと思って引いてみたら、誤用とも断らずに載せている、けしからんというのである。

改めて引いてみると、「耳障り」とは別に「耳触り」が立ててあり、文献上の用例は一つもなく、「耳ざわりのいい(悪い)音」という作例だけが添えてある。正直なところ、この見出しを立てたのは、最近時々耳にすることでもあり、小さい辞典でも見出しに立てるようになってきているからという程度の理由だったと思う。この「耳触り」は、「手ざわり」「舌ざわり」などに影響されて最近使われ始めた言葉だと私も思っていたから、友人に指摘されて注記を添えるべきだったかと反省させられた。ところが、「学研国語大辞典」を引いてみて驚いた。そこには宮本百合子の「伸子」(大正十三〜十五)から引いた次の例が出ていたのである。



○ 云へといふなら云ってもよいがねーあまり佃さんにお耳ざわりがよくあるまい。(四・七)



これによれば大正末期に既に「耳触り」が使われていたことになる。残念ながら私のカードではそれより後の次の四例だけだった。

○ なによりも芸者の大軍の騒々しいのには呆然としてしまひ、やがて弥次気分に煽られて、実に壮観だと面白くなって来た。肌襦袢ひとつで長い廊下をべたべた走りながら、彼女等がお互いの名を呼び交わす声などは、特殊な耳ざはりだった。(川端康成「童謡」昭和十年)



○ 青春のヒューマニズムの否定者としてのエゴイズムを、ただの耳触りのよい客間(サロン)談義としてではなく、茶の間に、台所に、書斎に、寝間に、すなわち、家常茶飯のなかにひとつひとつ丹念につまみあげてゆかねばならない。(荒正人「第二の青春」昭和二十一年)



○ レッド・ヒステリアは由来口走るだけの能しかなく、甚だ耳触りのわるいものであります。(林達夫「無抵抗主義者」昭和二十六年)



○ 注の音標文字に依って、こころみにこれを発音してみると、耳ざはりに曖昧なところが微塵も無い。(石川淳「鷹」一、昭和二十八年)




昭和初期の用例がないのは遺憾だが、ともかくれっきとした小説家や評論家が三十年以上も前に使っていたのである。やはり「耳触り」は見出しに立てざるを得ないようだ。

(125〜126ページ)

というのです。ちょっと長かったんですが、要は大正末期に、もう用例があったのです。

だから、永井荷風が「耳触り」を使っていても不思議はありません。しかも、荷風の用例は、「日本国語大辞典」を編纂したこの松井先生自身が見つけた一番古い用例の、「昭和10年の川端康成」よりも古い「昭和7年」のものです。「残念ながら昭和初期の用例がないのは遺憾」と松井先生は書いてらっしゃるんですが、昭和7年の荷風例は、一応「昭和初期」に入るのではないでしょうか。

結局、永井荷風の「いかにも下品にて耳ざわり悪しき俗語なり。」は、「耳触り」の一番古い用例ではありませんでした。しかし、「かなり古い用例」としての価値はあるのではないでしょうか。ちょっと満足の道浦でした。

2000/9/22

("耳ざわり"その後)

このホームページをご覧になった、清水一與さんという人からメールが届きました。この方は、元・読売新聞の編集委員で、現在は関西外国語大学にお勤めです。新聞社勤務時代は、読売テレビの「読売新聞ニュース」のキャスターも務められ、私も随分お世話になりました。その清水さんからのメールには、なんと、明治時代より古い時代の、「耳触り」の使用例を見つけたと言うのです!以下、メールからの転載です。



"ありました、ありました。

「今昔物語」巻七の第三に「嫌ムト云エドモ般若ノ名ヲ耳触リタル功徳カクノ如シ」と。鎌倉時代です。

また江戸時代中期(明和)の長唄集「雲の峰」に「風の音 耳さわりよき 幟かな」と出ていました。

今昔は岩波の古典文学全集の索引から探し、原文に当たりました。長唄の例は、角川の古語大辞典からです。"




うーむ、スゴイ!一気に「耳触り」の使用例が、鎌倉時代にまで飛んでしまいました!そんな昔から「耳触り」は使われていたんですね。まるで、ことばのタイムマシーンに乗ったみたいな感じです。清水さん、どうもありがとうございました。持つべき者は、良き先輩です。

しかしこうなると、今度は逆に「昔から使われていた"耳触り"が、現在のように違和感を感じるようになったのはいつ頃からか?またその理由は何か?"耳障り"のほうが後から出て来た言葉ではないのか?」という疑問が生じてきます。

これだから言葉の話は奥が深い、です。

2000/10/5

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