◆ことばの話60「男泣き」

新年の恒例スポーツ行事の一つに、ラグビーの大学選手権があります。1月2日の準決勝、第1試合は、今年、創部100年の年に燃える慶応義塾大学と、関西の覇者・同志社大学の対戦となりました。

前半は同志社、後半は慶応がペースをつかみ、関東・関西のチャンピオン同士の息詰まる熱戦となり、結局、慶応が25対19で逃げ切りました。

この好ゲームがノーサイドになった時、両チームの選手の中には、感極まって泣き出す者もいました。それを見たアナウンサーが、

「慶応の○○選手、男泣き!」

さらに続けて、

「同志社の××選手も、男泣きです」



と言いました。 私はそれを聞いて「おやっ?」と思いました。

勝った慶応の選手が感激して「男泣き」するのは良いとしても、負けた同志社の選手が「男泣き」するのだろうか?と。

しかも、慶応の選手は声を上げて泣くような「大泣き」でしたが、同志社の選手は、目にうっすらと涙を溜めた程度でしたし。

辞書をひいてみると、「男泣き」は「普段、滅多に泣かない男の人が感極まって泣く事」とあります。ジェンダー論の立場からは、引っかかる事が多々あるとは思いますが、今回はひとまずそれは置いておくとして、それでもやはり負けた方が「男泣き」というのは、あの場面は当てはまらないように感じました。「男泣き」というと、どうしても「号泣」のイメージがあります。

同志社の選手は「負けて悔しかった」のですから「悔し泣き」でしょうし、あの場面は単に「男が泣いていた」だけだと思うのですが。

どなたか、あのラグビーの中継を見られた方で、気になった方はいらっしゃいませんか?

2000/1/4


◆ことばの話・番外編「ミレニアム大晦日に思う」

このところ「お正月感」が薄まったとは思いませんか?

いわゆる「お正月らしさ」への「こだわり」とでも言いますか、そういった感じです。それが年々薄れてきた感じがするのですが。

なぜそうなったのか。

私が思うにその一端は、コンビニにあります。

お正月がお正月足り得た一つの原因は、世の中の動き、特に商業活動が停止する、平たく言えば「お店が休み」というところにあったと思うのです。三が日は市場もお店もスーパーもデパートも休みだから、それまでに(年内に)三が日のあいだの食料やら何やらを買い込んで準備をしておこう・・・ということで年末の慌ただしさがあり、また、子供の頃、秘密基地にいろんな物を持ち込んで息を潜めて遊んだような妙な期待感があったと思うのです。

ところが。

コンビニは年中無休の上に24時間営業です。別に大晦日までにいろんな物を買いだめしなくても、足りないと思えばいつでも買いに行ける。こうなってしまっては、買いだめしてまで準備をする緊張感は失われてしまいます。

もちろん、言葉通りに「コンビニエンス(ト)」なお店である事は否定しませんし、今、コンビニが1軒もなくなってしまえば誰もが困るのは目に見えていることは踏まえた上での話です。

よく、こういった話で出てくるのは「ハレ」と「ケ」のこと。お正月やお祝い事の日が、すなわち「ハレ」。そして普段の地味な日々は「ケ」です。この二つのバランスといわゆる「メリハリ」があった方が、より「ハレ」は楽しめるし喜べるのは意馬でもありません。

コンビニは、休みなくモノと情報を提供できる街のキー・ステーションとして、日常の365日をすべて「ハレ」にしてしまおうとした結果、実は365日全てが「ケ」の日になって、「ハレ」の日が消滅してしまった・・・これが「お正月感」がなくなった一つの大きな要因だと思います。

そして同じ事は、テレビ番組にも言えます。

各期末期首特番などがどんどん拡大し、豪華になってきたために、最近の年末年始のテレビ番組は、特に「お正月感」を出しているとは思えません。もちろん努力はしているのですが、メリハリがなくなってしまって、いくら豪華にしても期首特番との差異を出せなくなってしまっているのです。

質で凌駕できなければどうするか。当然「量」で勝負、となります。だから、年末年始の番組はどんどん肥大化し、何の意味もなく何十時間もダラダラ放送する自体になってしまっているのです。

問題はどこで歯止めがかかるのか、です。このままでは、「年末年始特別・1ヶ月テレビ」なんて物が登場しかねません。(まあ、そこまでテレビ局も視聴者もアホではないと思いたいのですが。)

ところがこの年末、街では例年とは少し違った動きが見られました。

Y2K、つまりいわゆる2000年問題で、電気やガス、水などのライフラインが止まったり、食料が調達できなくなる恐れがなきにしもあらず、という状況になったため、お正月用に水や食料を買い求め、お正月せめて3日間は家ごもりという状況になっても大丈夫にしようという動きが見られた事です。これによって、例年よりは幾分、お正月を迎える一種の緊張感が、今年はあります。

良い事なのか、悪い事なのか。こんな事でもなければ「お正月感」は取り戻せなくなっているのが、2000年を目前にした、日本の姿なのですね。

1999/12/31


(追記) 2000年を迎えてしまいました。

「2000年問題だ、Y2Kだ」と騒いだ事の方が、より「2000年問題」だったようです。これも「噂の効用」なのでしょうか?インターネットは「噂の伝わりやすいメディアだ」と思っていますが、そもそも現代社会そのもの、そして現代人一人一人が、「噂の熱伝導率の高い要素」になっているのではないでしょうか?

そうそう、お正月感の追記ですが、「お正月感」をなくしているもう一つのものは「携帯電話」です。コンビニといい携帯電話といい、現代人にとってなくてはならないものですが、やはり「お正月感」を無くす一因でしょう。

たとえば、最近、携帯電話を持っている者同士が待ち合わせをする場合は、待ち合わせの時間や場所をきっちりと決めなくなってきているからです。

「どこに、何時にする?」

「うーん、梅田で5時ごろ。近くに来たらケータイに電話ちょーだい!」

というふうな待ち合わせの仕方です。

「渋谷のハチ公前に5時」「梅田の紀ノ国屋書店の向かって右の入り口の右端のところで6時15分」などという待ち合わせは、減少している事でしょう。

場所と時間を前もってきっちり決める事は、いわば「けじめ」です。

一年の生活の中でのひとつの「けじめ」が「お正月」であるのなら、普段の生活から、近未来の予定をきっちり策定していく生き方が徐々に廃れて行く中での「お正月」の位置づけは、どんどん下がって行って当然ではないでしょうか。

2000/1/4


◆ことばの話59「ウラジーミル・プチン」

1999年12月31日、夕方になって、ロシアのエリツィン大統領辞任のニュースが飛び込んできました。

後継として大統領代行に指名されたのは、ウラジーミル・プチン現首相(47)です。

ところが、元日の朝刊を見比べてみると、このプチン首相の名前の表記が、各新聞によって異なるのです。

まず、「プチン」首相としているのが、朝日・産経・日経の3紙、読売と毎日は「プーチン」首相と「プ」を伸ばしています。

それだけではありません。

ファースト・ネームも、読売・朝日・毎日・産経の4紙は「ウラジーミル」と「ジ」を伸ばしていますが、日経だけは「ウラジミル」と「ジ」を伸ばさない表記をしています。

放送局で確認できた中では、NHKは「プーチン」と伸ばし、テレビ朝日は「プチン」と伸ばさない。日本テレビは「プチン」とやはり伸ばしません。

外国人の名前で各社の表記が違った人としては、あのクリントン大統領の愛人として報道されたモニカ・ルィンスキーさんがいます。これも「キ」を伸ばすかどうか、また「ルウィンスキ」のように「ウ」が入るかどうか、など各社バラツキが見られました。

まあこの人の場合は、いわば一過性の人ですから、まだそれほど問題はないのかもしれませんが、ロシアの大統領となると、頻繁にニュースに登場するでしょうから、近々表記の統一が問題になるのではないでしょうか。

ロシア人は一体どう発音しているのか?今度、ロシア語に詳しい同僚に聞いておきますが、それとは別に、外国人の名前や地名をカタカナでどう表記するか?という根本的な問題は、2000年を迎えても、解決されないようですねえ。

2000/1/1


(追記)

その後、ロシア語に強い同期のプロデューサーを通じて、ロシア人に「プチン」と「プーチン」のどちらが原語に近いか、聞いてもらったところ、「プーチンの方が近い」との事でした。

また「ウラジーミル」か「ウラジミル」かについては「ウラジーミルの方が近い」との事でした。要は、アクセントの強いところが少し伸びて聞こえる、という事のようで、「プーチン」の場合は「プ」に、「ウラジーミル」は「ジ」にアクセントが来るという事でした。

2000/1/12


(さらに追記)

2月4日の新聞用語懇談会で、この話題が出ました。

その中で、1月末にそれまで「プチン」としてきた共同通信と朝日新聞が「プーチン」に変えたと報告されるなど、「プーチン」と伸ばす所が多くなりました。

さらに2月10日に私が確認したところ、当初「プチン」だった日本経済新聞と産経新聞も「プーチン」に変えていたため、これで全紙「プーチン」に統一されました。

めでたしめでたし。

ただ、チェチェンの首都の名前が「グロズヌイ」か「グローズヌイ」かは、統一されないままです。

2000/2/15


◆ことばの話58「紅白歌合戦」

皆さん、明けましておめでとうございます。

2000年になってしまいました。

昨夜、大晦日は泊り勤務で、2000年問題のニュースなどを読んでいました。

その合間にチラチラと、見るとは無しに見てしまいました、某局の紅白歌合戦。

多分元日のスポーツ紙には載る・・・と思っていたのですが載らなかったあの事実、ご存知ですか?

加山雄三さん、間違いましたよね「君といつまでも」の歌詞。もう、何十年も、何千回、何万回と歌っているハズの一番の持ち歌なのに。気持ちよくて上の空になってしまったんでしょうか?

セリフに入る前の、1番の歌詞の最後。字幕でしっかりと「ふたりの思いは 変わらない いつまでも」と出ているにもかかわらず、堂々と「明日もぉー」と歌いかけて、ここで間違った事に気付いたのですが、「時、既に遅し」。次の歌詞がわからなくなって、



「うーぶーろあー・・・変わらない、いつまでもぉ」

と歌いました。何なんでしょ、「うーぶーろあー」というのは。

「弘法も筆の誤まり」というヤツかな。



それよりも気になったのは、紅白歌合戦におけるジェンダー論。

なぜ紅(あか)組が女性で、白組が男性なのか?色によって性別を分けてしまう事の是非については、最近しばしば言われるようになりました。

「そこまで、気にする必要はないじゃないか」と、私もちょっと思いますが、きっと近い将来出てきますよ、こういう話が。紅白が男女対決の形ではなく、紅組も白組も男女混合で入っていて、性別とは関係無しに、単に紅組と白組が戦うという、そういう紅白歌合戦が。えっ、もう始まっているって?・・・そうでしたか、鈴木その子さんが紅組ではなく白組の応援に来たんですね、「美白」ですもんね。そう言えばIZAMも去年だったか、紅組からでてましたよね、SHAZUNA。うーん、やはり現実の動きは素早いなあ。

そもそもは源平の合戦が紅白の合戦の始まりとか。

それなら確かに色と男女の性別をくっつける事はないんですけどね。

まあしかし、まだ当分続くかな。わからないけど。

2000/1/1


◆ことばの話57「ジャンバー」

京都市伏見区で、小学2年生の男の子が刺し殺されるという痛ましい事件が起きました。

子を持つ親として、その悲しみは察するにあまりあります。

その犯人が残していったと見られる遺留品の一つに「青いジャンパー」がありました。

目撃者の話では「ジャンバーを捨てていった」というのがありました。そして、そのインタビューをフォローする字幕スーパーに「ジャンバー」と出たのですが、正しくは「ジャンパー」。半濁音の「パ」です。濁音の「バ」ではありません。

関西の人間は、とかく濁りたがります。

「ジャンバー」以外にも「自治省」「地方自治」をそれぞれ「じじしょう」「ちほうじじ」、野球の「送りバント」のことを「送りバンド」、「体育大会」を「体育だいかい」、「勇者」を「ゆうじゃ」などなど。数え上げればキリがありません。

目撃者が「ジャンバー」と言うのはまったく構いませんが、字幕でその発言内容をなぞる場合には、意味が同じ共通語に直した方が、良いと思います。

1999/12/24


◆ことばの話56「大盤振舞」

ニュースで「大盤振舞」という言葉が字幕で出てきました。

この「大盤」とは一体なんだろうか、という話になりました。

「大きな算盤かな?」と思って辞書をひいてみると、なんと「大盤」は当て字。

本来は「椀飯振舞」と書くんだそうです。しかしこれだと「わんはんぶるまい」ですよね。

その「わん」が「わう」に変化(ウ音便かな?)して、「はん」が連濁で「ばん」になって、「わうばん」。さらにこの「わう」が「おう」にかわって「おうばんぶるまい」となったそうです。意味は「江戸時代に民間で一家の主人が、正月などに親類・縁者を家に招き、ごちそうを振る舞った事を言い、そこから転じて一般に「盛大な宴会」や「気前良くごちそうすること」の意味になったという事なんですねえ。

もともと正月の宴会が起源ですから、俳句で「大盤振舞」というと、「新年の季語」にもなっているとのこと。

この年末年始はY2K問題などもあり、旅行に出かけるのを控えて家のコタツに入りながら、ホテル・メイドや有名料亭の「おせち料理」を食べるというスタイルが、どうも人気らしいですが、それに伴って、「おせちの大盤振舞」というお宅も、多いかもしれませんね。

1999/12/24

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