ヘッダー Space 『ホークスの70年〜惜別と再会の球譜』
(永井良和、ソフトバンク・クリエイティブ:2008、10、1)
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何を隠そう、わたくし、子供の頃は「南海ホークス子どもの会」に入っていた「ホークス・ファン」であった。ただ、1988年にホークスが福岡に行ってからは、心は離れてしまっていたが。
ここに、過去のホークスファンをも取り込む一冊が登場した。この本が出来た一つのきっかけは、今シーズン福岡ソフトバンクホークスが「南海ホークス緑のユニフォーム」を着て交流戦を戦った、あの試合に由来するという。「ダイエーホークス」時代は、「南海」色を消すことに必死だったが、20年の時が経ち、チームのオーナーが、「ダイエー」から「ソフトバンク」に変わったことで、ようやく「南海」を歴史として受け入れることができるようになったのではないか、と思う。この本を出している出版社は「ソフトバンク・クリエイティブ」だし。
いろいろ興味深い記述があったので、書き抜く。
※『夏の「甲子園」も、一九四六(昭和二一年)は西宮で開催されている。少年たちの暮らしに野球が戻ってきた。関西の球場が甲子園だけでなかったことの意味は大きい。西宮は、プロ野球だけでなく、中等学校の野球の復活にも貢献した。』
〜これを読んで、今の関西の球場が甲子園と大阪ドーム、グリーンスタジアム神戸しかなく、大阪球場も西宮球場も、日生球場も藤井寺球場もなくなった、大阪球場と西宮球場の跡地には大規模なショッピングモールができている。あの頃から野球離れは始まっていたのではないかと感じた。
※『三原 修は巨人監督時代まで。監督に水原 茂が来て総監督に祭り上げられて、巨人を捨て西鉄へ。巨人に敵がい心を燃やす立場に身を置き、名前の字体も修から脩に変えた。』
※『グレートリングは女性自身の別称なので進駐軍の兵隊に人気があった。近畿グレートリング。マーカット少将の副官・キャピー原田恒男氏の解説でわかったので、近畿はあわてて翌年から南海ホークスと改めたと、1980年に出た鈴木龍二回顧録に書いてある。』
〜「キンキ」も危ないと思うのですが・・・。
※『大阪球場の建設の背景にはアメリカの占領政策があり、山本(一人)と原田が知り合いだったこと、マーカット少将が松浦の光る頭を好いていたこと、阪神阪急両球団が、田村 駒が球場建設を予定していた梅田よりも、甲子園・西宮球場から遠い南海の難波案を押したこともある。』
「南海ホークス」という一つのチームを取り巻く70年を記すことは、「日本の野球界」の、そして「日本そのもの」の歴史を紐解くことになるのだなあと、大変感慨深い一冊でした。

★★★★

(2008、11、21読了)
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