ヘッダー Space 『なぜ君は絶望と闘えたのか〜本村洋の3300日』
(門田隆将、新潮社:2008、7、20第1刷・2008、10、15第12刷)
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最初の40ページまでは、文字どおり、「胸が締め付けられるような息苦しさ」を感じながら読んだ。被害者、遺族の本村さんの無念、家族への強い愛、被害者に対する司法の無関心さ、トップダウンの政治のスピード・権力、そして加害者である元少年の非道さとそれをとりまく弁護団・・・いろいろなことを考えさせられた。
遺影を持ち込むことを裁判所の職員に止められたシーン、「理不尽だ」と思って当然だ。しかし、被告人を動揺させるからという後付けっぽい理由は、最初は「なるほど」と思ったが、よく考えると、被告人が動揺したとしても、それは「良心の呵責」によるものなので、真実を語らせるための一助になり、ひいては「被告人更生のために避けては通れない道」なのではないか?と思った。
心情的には「目には目を」で、「人を殺したら死刑だろう」と思うが、それなら司法制度はいらない。前近代的な社会になりはしないか?
「裁判とは、被害者に配慮する場所ではない」
という裁判所職員の言葉は“非情”にも思えるが、たしかにそういう面もなければ、裁判所は“私刑の場”になるのではないか? 頭でっかちな近代の司法制度に、人間の本来持つ“情”を折り込んだ、新しい・現代に即した司法制度の確立が必要ではないだろうか。いや、これは実は「制度の問題」ではなく、「裁判官の裁量・運用の問題」のようにも感じる。本村さんが言うように、死刑判決を出さずに「無期懲役」で最短7年で出所して、また同じような罪を犯したら、無期の判決を言い渡した裁判官はどう責任を取るのか、というのも一理ある。ただ、先のことはわからない、再犯が起きるとこわいから、「じゃあみんな死刑!」でいいのか?という疑問も残る。それもまずいのではないか。
裁判員制度が始まって、一般の人が量刑を決めるようになったら、本来、裁判官が負うべきその責任を、一般人が負うのか?取るのか?
死刑制度がなければ、死刑の賛否も問えないという意味では、死刑制度の存続の意義はあると言えるかもしれない。
ちょうどこの感想を、電車の中でケータイ・メールで書いている時に、赤ちゃんの声が聞こえた。そしてベビーカーを押しているお母さんが、
「何歳ですか?」
と、ツインのベビーカーのお母さんに聞いている声が聞こえた。ツインズのお母さんが、
「11か月です」
と答えていた。「11か月!」ああ、こんなに大きくて、小さいんだ!十分に人間なのである…。本村さんの無情が、胸にこみ上げた。

★★★★★

(2008、11、12読了)
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