ヘッダー Space『巨大メディアの逆説』
(原 真、リベルタ出版:2004、3、18)
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著者は共同通信記者で、1997年から3年間はニューヨーク特派員。大変ためになる本だが、中でも衝撃を受けたのは、ネットやブログといったものの発展で情報が細分化されることによって、「共通のメディア体験」が失われてきたため、多くの人たちが価値観を共有することが困難になってきている、ということ。つまり、特定の社会問題の解決を図ろうとしても、議論の前提となる問題の存在すら、当事者以外は知らないというようなことが起こりうる、そして討議で合意に至るはずの民主主義にとって、これは危機的状況であるという指摘だ。
私は、大量生産・大量消費のマスメディアの時代から、少数・多品種の時代に移ったことで、放送もそういった小さい単位の番組でも成立しうると考えていたのだが、こうした「大衆」社会の崩壊、「マス」メディアの崩壊が、民主主義社会の崩壊を来たすという指摘はショックだった。民主主義社会というのは多くの人びとの「共通理解」の上に成り立っているということだったのか。
しかし、だからこそ「テレビ」は、より重要な情報を知らしめる責任が生じ、「マス」コミとしての責任が重くなるのだと考えて行動したい。
この本は去年11月に読んだ故・米原万里さんの『打ちのめされるようなすごい本』(文藝春秋:2006、10、15第1刷)の中に出てきたので読んだ本。その時の感想として私は、
「(米原は)『特に印象的なのは、画一化するメディアと並んで、技術革新によってネットやケーブルテレビなど小規模の多様な情報提供が視聴可能になったことによって、それぞれの市民が自分が視聴したい報道や娯楽のみを視聴するようになったために、敵対する、あるいは異なる社会グループがお互いの意見や情報を共用できなくなり、ひとり一人の市民が得る情報は逆に狭くなるというパラドクスを指摘するところ』としてこれに関して、『市民社会崩壊に繋がる由々しき事態である。』と述べているが、これも興味深い。マスメディアであるテレビがこれまでターゲットとしてきたのは『大衆・マス』であったが、『大量生産大量消費』の時代が終わって『少量多品種』の時代に変わった現在、番組の供給もその方向に向かい出しているのに、それがもたらすものが市民社会の崩壊とは・・・思いもしなかった。」
と記している。
この本は「あるある」事件の前に読んだのだが、この事件はある意味では、まだ原が指摘するような小規模の多様な情報提供がゆきわたった社会が成立していないということを、図らずも証明した形。また、メディアリテラシーの欠如をも如実に表わしたとも言える。
「訓練された知識あふれる大衆(による)社会」というのは、矛盾した存在なのだろうか?

(メディア関係者にとっては★★★★、一般の人には★★かな。専門的すぎるので)

(2007、1、14読了)

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