ヘッダー Space『日本語はなぜ美しいのか』
(黒川伊保子、集英社新書:
2007、1、22)
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こういうこともあるのだ。
中学の時の国語の教師が「本は、おもしろくなくても最低100ページまでは我慢して読みなさい。そうするとおもしろさが分ってくることがある。もし、それでおもしろさが分らなくても、100ページまでは読むのが、著者への礼儀だ。」
以来30年間、忠実にほぼその教えを守ってきたが、この本は17ページで読むのを断念した。以前、宮崎哲也が「トンデモ本」として同じ著者の『怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか』(新潮新書)を挙げているのを見たときは、その本を読んだことがあった私は「え?そうなの?」と意外に思ったのだが、今回この本を読んで「あ、これは、そうだったのか・・・」と思い当たった。
まずタイトルがいけない。「日本語はなぜ美しいのか」というと、既に「日本語は美しい」ことを前提として話が進んでいる。日本語の中には美しいものもあれば美しくないものもあるし、それは英語でも中国語でもスペイン語でもフランス語でも同じはずである。いきなり「なんかヘンだな」と思わせる、危険なタイトルだ。
そしてこの本は、まず「母語と母国語の定義」から始まるのだが、それが全然明確じゃない。それどころか、定義が間違っていると思われる。まず「母語」の定義は、
「ある固体の脳が、人生の最初に獲得する言語のことである。脳の基本機能と密接に関っているので、後に獲得する二つ目以降の言語とは、性格を大きく異にする。」
とある。これは、まあそうかなと思った。しかし、「母国語」の説明はこうである。
「その国の風土と人々の意識とによって長く培われてきたことばが、母国語である。」
一見すると、「そうか」とうなずいてしまいがちだが、本当にそうか?この「母国語」の定義をしようと思ったら、「国とはなにか」の定義が必要であるが、それはなされていない。
それなのに「母国語になりきっていない言語を母国語に使う国もある」として「独立宣言からわずか二三0年」のアメリカの国民は、
「全員が一0代目以下の国で、ことばと風土と人々の意識が、しっくりとなじんでいるとは到底思えない。」
と書くのを見ると「はあー??」と言わざるをえない。では、成立して15年ほどの今のロシアやクロアチアやたかだか独立後半世紀に満たないアフリカ諸国の言葉は「母国語になりきっていない」のだろうか?中国(中華人民共和国)でも、アメリカよりも短い。中国語は母国語ではないのか?そして、
『語感だけでいっても、「Good Morning」は「おはよう」に比べると、暗く物憂げなのは事実だ』
!!!
事実か???誰にとっての事実?????
この本のことを若い後輩に話したところ、
「新書って、教養が付くものだと思ってましたけど、『オニババ化する女たち』もそうでしたが必ずしもそうじゃないんですね。」
という感想であった。数年前からの新書ブームで、多くの出版社が新書の分野になだれ込んできた。いまや新書は「玉石混交」である。ババをつかまないようにしないといけない。でも今回、えいやっ!で、つかんじゃった・・・。

(☆なし)

(2007、1、23:17ページで読むのを中断)

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