ヘッダー Space『重光 葵〜上海事変から国連加盟まで』
(渡邊行男、中公新書:1996、8、25)
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「葵」と書いて「まもる」と読む。彼の兄の名前は、草冠の下に「族」と書いて「あつむ」(東京大学工学部教授)で、弟は「蔵」と書いて「おさむ」(大分大学経済学部教授)だった。父「直まさ(「まさ」は「原」の下に「心」と書く)」が漢学者だったから、特別な字を名前にしたと言う。
昭和7年(1932)4月29日の天長節、駐華公使だった重光は、爆弾事件で右足を失ったが、その後も「隻脚公使」と呼ばれて外交活動に携わった。
昭和20年(1945)9月2日、ミズーリ号の艦上で降伏文書に主席全権として署名したのは重光だった。
そして戦後、A級戦犯として7年間の獄中生活を経て外相となった重光は、昭和31年(1956)7月、モスクワで北方領土問題をめぐる対ソ交渉を行なったがうまくいかず、途中でロンドンのスエズ問題国際会議に転進。その後10月19日に、鳩山首相がモスクワ入りして「日ソ共同宣言」にいたる。50年前のその時点から、北方領土問題に進展はない。
そして同じく昭和31年(1956)12月18日、重光は外相としてニューヨークの国連本部で演説を行なった。
「日本はある意味において東西の架け橋になりうる。日本が崇高な目的に対し誠実に奉仕する決意を有することを表明して、私の演説を終わります。」
国連加盟から今年で50年。この重光の言葉のように「崇高な目的に対し誠実に奉仕する決意」が、「常任理事国入り」ということなのだろうか。
この本を読んで、現代の日本が抱える国際問題の発端は50年前にあり、その理解なくして現状の理解もできないのではないか、というふうに感じた。


★★★

(2006、9、20読了)

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